古武術礼賛は良いがその仕方では…

  • 2007/07/12(木) 12:17:48

古武術の身体操作法。
介護への応用を伴ってその有効性がしばし説かれる。

その有効性を説くのは良い。
それを啓蒙することは大いに賛同する。


しかし、それに伴って、
「科学否定をパッケージにする」事を危惧する。




古武術が有効であることは、それに「合理性があるから」
であって、何にも「非科学的な理由によるもの」では決して
ない!

そもそも科学とは他者と価値観を共有するための作法、
共通認識を構築するための手段であって、
原理主義的な根拠、ドグマを持った聖典では、ない。


今、古武術の奥義…基本的理論…が、有効性を認められ、
スポーツ業界から介護業界に至るまで、広く応用されつつ
あるのは、それが科学的に実証されうるものであるから
であって、非科学的なオカルトや、超常識現象を肯定する
精神的な支柱に則っているわけではないのだ。


その普及と同時に、「日本人が早くにそれに気づき、
古よりそれを行っていたことを誇る」のは、
それはそれで良い。大いにやったらよい。

往々にして、新しい事を仕事に導入するときには多大なストレスが
生じるものだ。全く新しいものを、誰とも知れぬ連中から押しつけ
られ、やらされる…と感じるよりも、自分たちの共同体が昔から
行っていたことだ…と言い聞かせて体得する事の方が、そのストレスは
緩和されるであろう。
その有効性も判る。が、これもまた、科学的合理性を認めうるものであろう。






やはりそれは、「科学」を否定するものでは…ない。

むしろ、伝統の合理性の検証に科学的視点を導入してこなかった
「怠慢」をこそ、否定すべきなのだ。

伝統を重視する保守的な勢力は、
「科学的視点が導入されたら、その合理性が否定される
…とでも思っていたのだろう。だからその合理性・有効性を
積極的に証明することを避け、逃げつづけていたのであろう。

伝統は伝統であって、続いている事のみに価値がある…と。
非科学的で非合理であっても続けるのだ…と言っているに
等しい態度を貫いてきた。

しかし、この古武術の例にあるように、伝統にはそれなりの
根拠と合理性を、科学的に認められうるものである と、
保守勢力は、その合理性をむしろ信じるべきであった
信じ、証明しようとする態度こそが、真に、伝統を信頼し、
伝統を尊重する態度であるのだ…と言いたい。



昆虫のような劣等な生物でも、例えば蜂が数学的合理性と
同じ結論としての八角形の巣を作るように、伝統という
永続的切磋琢磨の延長線上に、最も「省エネ」の…あえて
悪く言うと、最も「手抜き」である、「合理性」に行き着く
ものなのであろう。
これもまた、ある意味で「神の見えざる手」…ってやつだ。



しかし、それでも、
「科学を否定」するのではなく、
「科学の文脈」によって再評価すべきなのである。

その文脈によって、客観性をより幅広く、普遍性をより深く
追求する態度によって共有され広めてゆくべきなのだ…と言いたい。





伝統の肯定に連動して「科学の否定」という後ろ盾を立てることは、
それによってもたらされる新しい作法に対し、受容者に思考停止を促し、
無批判の許容強要することになる。

それによって結果的に構築されてゆくのは、
創造性の許されない「師弟関係」「主従関係」だ。そこを懸念する。