ハルヒ初感

  • 2007/07/10(火) 22:49:30

90年代末に認知された80年代ヲタク(ガイナ系)を
今更インスパイアしている感じ。    …注1
ミットモナイ素人芸に伴った「創造性」の価値を
彼らの軌跡に載せて描いている。
単なる失敗にも新たな価値が意味付けられそうだ。
しかしこの第一話で二話以降を見たいと思う者が
何割居るのだろうか…?! 篩いにかけてるなー。

退屈な日常を楽しむ屁理屈を肯定する物語となっている。
我が侭な女の妄言を男が理性的に辻褄合わせする関係として。
これは1960年代の無鉄砲な男を、料理でその腹を掴む女との
関係と裏焼きになっている。

ここでの女に選ばれた男なる凡夫。それは、守る女を
認定する男の…女側から言うと白馬の王子様願望と
同質。自分を成長させてくれる異性を潜在的に求めている。
利己的に自己成長を望まない…自ら望むことに対する
嫌悪…私欲を禁じたい殊勝な気持でもあるそれが、
自らの行動に対する責任を自分に被せる事に対する
怖れであったり無責任さでもある。




閉鎖空間の表と裏を入れ替える世界の誕生という感覚。
それは、元の世界を完全に消し去ることはできなかったが、
戦前の価値観をほぼ消し去り、造られた事実を信じるに至った
一時期が戦後に現にあったその関係にも似ている。
また、世紀末前後を彩っているいわゆるオタク系の作品群によって
彩られた今のこの現実の起源を辿れば、例えば戦前の宮沢賢治…
「銀河鉄道の夜」のような一個人に遡れるのかも知れない。
ここでの比喩を究極的に描くならば、ハルヒなる神の存在も
現実の究極的な比喩として正に現実を描いている作品だと言えよう。

そして、もっと辿れば究極的なソレも現実に見つけることもできる。
例えばイスラム教で言うところの全人類を同族だとみなす根拠
としてのアダムなる存在の論理性や、遺伝子計算による確率論的な
ミトコンドリア・イブなる存在だとか。それらは創世記に言うような
究極的な最初の二人ではなく、何気ない日常に普通に居たであろう
多数の中の一個人である。





注1>
今更…というか今だからこそと言うべきか?!
これは結果論的に今だからこそ大々的に価値付る
ことも可能なのだ…といった側面も有ろう。
オタキング東大講師後というか、
メイド喫茶がニュース報道後で繰り返される後だとか、
アキバ系を大臣が容認だとか…いろいろあった/あり得た
社会的認知「後」の意味において。
マクロスや王立やエヴァ現象程度では評価に価しない
訳で、それらを上回るほどの価値が、今ではソレらに
与えられている…ってことなのだろう。

涼宮ハルヒの憂鬱…として理解された世界

  • 2007/07/10(火) 22:42:14

遅蒔きながら、動員的話題作に目を通した。

涼宮ハルヒの憂鬱…時系列と話数の転倒と対比と現実徒非現実の影響関係

学園祭という非日常の「トランス」が過去を読み替える切欠として作用し、
そこでの結論を順次辻褄を合わせて行く…という構図になっている。
物語の配置の仕方によって。

時系列で言えば、1,12,11,9という話順をそのように配しているのは、
1〜9の間でその結論までを構築し、その思索の日々の総括としての追想が
11,12という逆順の配置であり、その間に配される。





6,8の間に過去の7をカットインして割り込ませていることは、
10,13-14の間に11-12を挿入していることと相似であり、
6から8を導くのに過去のエピソードである7を持ち出す必然があったように、
10から13-14の間に挿入される11-12は、その結論に必要な前提であり、
時間軸上では未来のエピソードであっても、物語を終局させる前提として
の要素であってその意味では過去のものである。

つまり、13-14の大団円は、その時間軸の上のその時点では未だ
意味を持っておらず、1-12での「事件」と、それを内的に熟成させた
結果において意味をもった後付の結論であり意味であり、大団円である
ということを表現しているのだろう。

この相似する二つのエピソードを中継する形で配されている9は、
両者を対比する基点であると同時に時間軸の上では最後の
エピソードでもある…ということで。






このような構造性を提示しなければならないのには、それなりの明確な意図があるのだろう。

理解し難いワガママ女を有意なものとして価値付ける…というよりその意味を補完する屁理屈が、キョンの妄想的なSF的世界設定であって、それはこの世の真実とは何ら関係が無いという意味において妄想に等しい。いや妄想によって補完し逢うしかない関係として男女を描いているのであろう。どうせウソで補完しなければならない関係であるならば、そのウソは壮大な方が面白い…と言った感じに。

その妄想の代弁者として仕立て上げている者が、無口な女や、調子の好いチャラ男と、NOと言えない女である事が、それを補強している。
自分の妄想を肯定しうる類似的言説引き出しやすい対象として選ばれているのだとしたら、やはりこのような連中に集約されるであろう。
「嘘ではないが此方に都合の良い誤解を確実に相手に与える話法」というものがある。論理的に嘘ではない嘘。それを逆手に取って、相手は真っ当な現実の話をしているにもかかわらず、それを面白可笑しい非現実の空想を肯定する言葉として抽出する。その些細な言葉を核にどこまでも空想で脚色してゆくことが可能になる。
それを喩えれば、雪の結晶の核も、大気の塵であるように、その核は何でも良い。それを核として選んでしまえば、何処までも美しい結晶は育って行く。

発想次第でこのような楽しい世界の出演者として自らを描きうる…という構造を表現しているのだろう。





加えて、このアニメのキャラクター描写が、男性陣の目の小ささ(正常さ)写実性と、女性陣のベタな程のアニメキャラ描写との対比には、少なからぬ違和感と気持ち悪さを覚えた。これもまた意図的なのだろうか。

であるならば、そこで描かれた男女観は、現実の異性であることを必然としていないのかもしれない。それは過去、少女漫画が「あんな眼球の大きな人間は居ない」と揶揄されたほどの美化・偶像化を、今度はSFを自負する側が逆にこれを容認している…とも言いえるから。

ぶっちゃけ「相手は自分に手の届く異性の人間であれば、どんな容姿・性格であっても、総て妄想で補って耐えられるだけの「想像力」を身につけること」を勧めている…とも言い換えられる。

その心情は、どこか親の都合で見合いさせられ、望まぬ相手と結婚を強要され、反対の許されなかった当時の女性の心情とどこか近しいものがある。…のではなかろうか。