「判官贔屓」は美徳として流通しているか

  • 2007/07/02(月) 20:45:12

「判官贔屓」って言えば、
「日本人に特有の誇るべき立派な価値観である」というような
常識があるかと思うが…。

私に言わせれば、そんなたいそうなものではない。



私に言わせれば、恥ずかしいからやめてくれ…ってなもんだ。

…と言って、こう考えたあなた。は私の考えは違います!
アメリカのように…「力こそ正義。負けた者には正義はない」
「負けると判っている勝負をする奴は愚かなり!」

…そんな立場で主張する気はない。そんな価値観を是としない。
その意味で、「判官贔屓」を是とする人たちと価値観を共有
してはいる。



「判官贔屓」という言葉によって標榜されている価値観そのもの
ではなく、それによって作られる現実がどうなのだ?! って部分に
対する気持ち悪さが見苦しいってこと。それは…、

無責任な連中が、見込みの無い男を持ち上げ、象徴にし、
御輿に担ぎ上げること。
旗色が悪くなれば、蜘蛛の子を散らすようにさっと逃げる。
平然と梯子を外して自分だけは安全圏に居続けるために、
そのことが担保出来るような本質的に弱い人間しか担がない。

そんな連中の常套句になっていやしないかってこと。
そんな状況を肯定する言葉にもなっているってことだ。


反体制で動く根性の無い奴らが、自らの無責任を棚上げ
するための美辞麗句が、この「判官贔屓」って言葉によって
象徴される“日本の実体”なのではないか?!

そう思えてならない。




だが、
少なくとも、多少の罪悪感を抱く者が一部には居るのだろう。
その者らによって、“生け贄”にされた“判官”である
気のいい純真な青年を、あたかも大英雄として語り継がれても
いるのだろう。

そのような「物語」の中で、それが残されることによって、
「判官贔屓」なる「力学」が、この国の歴史の中に厳然と
あったことを痕跡として残しているのだろう。

日本人の「原罪」とでも言うべきものとして…。


少なくともその「心」は、殊勝だと私も考えている。
だが願わくば、そのような後悔によって原罪を積み重ねる
のではなく、正面から背負えるような社会であって欲しい。