ボランティアと奉仕活動

  • 2007/06/11(月) 18:12:49

それを「ボランティア」と呼ぶべきではない
という部分には私も異論はない。

しかし、「奉仕活動」それを義務教育において強制するという
ことに価値を置くことと矛盾はしない。




その経験は、真にボランティア精神に目覚め、それを「実戦したい」と
考えた時に、その瞬間から社会にとって有益な存在として振る舞える。
その保証となるからだ。



例えば今、自殺者が相変わらず減らない。多いと言われる交通事故の
その4倍もの人間が、自ら死を選んでいる。交通事故にあってその
残された遺族のうんぬん…という事が言われるが、身内を自殺で
失った者の苦しみも、比べて遜色のあるものであろうはずもない。

そのうちの全てがそうだと言うつもりはないが、その内の幾らかは、
自らのアイデンティティーをその存在意義を、存在価値を、社会に
見出せず、居る必要の無い人間だと任じ、死ぬことが社会貢献であると
すら考えている者も、いくらかは居るであろう。

そんな自分の存在価値を見失い、せめてボランティアでもとその
自らの僅かながらであろう価値を確認するために足を運んでも、
何の経験も無いその個人は、ただボランティアの方々の足を引っ張り、
邪魔をするだけに終わる自分に直面し、自分の価値の無さを新たに
思い知る事にだってなるはずだ。

ボランティア協力を叫ぶ者達が「誰でも良い」「ちょっとした
気まぐれでもいい」と協力を叫べば叫ぶほど、それすらもが
ままならない自分に対し、死を選ぶ動因が増す。



昨今の政治状況は、経済的に戦力にならない人間は、
税支出を増すだけの邪魔で害悪な人間である!と
間接的に言っている。

寝たきりの老人が悉く早死にすれば、医療保険も年金も支出されず、
正に「百年安心」が実現される。
バブルとその後も続いた天下り支出、解禁された投機によって、
どれだけ穴が開いたのか明らかにされないまま、積み立てが
空っぽの可能性も考えれば、今のままで「安心」を担保するには、
それしかないと考えるのも判らなくはない。

右翼とは民よりも国家を重視する人間だ。その発言が増している今、
そのような動因で動いていてもなんらおかしくはない。


…話がそれた。戻す。
つまり、ボランティアは他人のためにするのみならず、
自らを救うことでもある。正に「情けは他人のためならず」だ。

若者の失われた生きる活力を取り戻す手段の一つでもある。