「少年法」廃止の声が高まっているが…

  • 2007/06/29(金) 21:34:35

「少年法」
それが更正を目的にしているということは、逆に言えば、
更正できない人間を社会に出さない根拠にもなりうる。

であるのに…、それを廃止するなんて本末転倒だ。


それを無くしてしまえば、先天的に問題の多い人間を
“今のように”簡単に社会に出してしまう事にも
なってしまうではないか?!

少年法を無くすのではなく、ただ、運用を厳格化するよう、
国民はそれを求めるべきであろう。



再犯の高い人間が一年二年で出てきてしまうのは、
更正ができていないってことだろう。






公共事業の問題にしてもそう。小泉時代以降、提示される
問題の本質がどこか転倒している。国民には危険な方向へ。

その「努力」は“努力”で良いの?

  • 2007/06/27(水) 23:26:46

今は「ガンバる力」をすべて“努力”と表現しているが。

人の活力となるエネルギーがすべて“怒り”であるのではあるまい。




確かに“怒り”は一番力強い荒々しい“力”であろう。

が、しかし、“努力”…つまり嫉妬や恨み・ねたみ等々、
怒りを掻き立てるネガティブなエネルギーばかりを
喚起していていいのか?! という疑問が残る。


だから例えば…喜怒哀楽で例えて言えば…、
「喜力」、「哀力」、「楽力」等々、…って言葉を
使うべきところもあるのではないだろうか。




地道に冷静に堅実にコツコツと続けることは「怒力」であろうか?
夢や喜びを精神的対価に行われる活動は、「怒」に劣るだろうか?
トラウマを抱えているが故に、自らの行動が抑制させられている
者の行動を、それが故に逸脱を絶対にしないと信じることもできる。
ストレスを抱えていないが故に、誘惑に負けて逸脱してしまうことが
無いということも、組織として有益だろう。

「怒力」ばかりを推奨してきたからこそ、このように殺伐とした社会が
眼前に広がっているのだ…と考えてはどうか?

私の思う「心のこもった挨拶」とは

  • 2007/06/26(火) 12:21:00

心を込める」それは、

ただ、無言で念じていれば、それでよいというものではない。
はっきり言って、どのような感情を込めたのだと意識していた
のだと言ったところで、どうでもいい。

私のかんがえる「心のこもった挨拶」とは、挨拶の時に、
「記憶の伴った対応」をするということ。
その都度、自らの記憶の中の相手に対する情報を更新する作業を
内的に行っているかどうか…ということ。



それは例えば、
相手の声のトーンが何時もより低ければ、元気がないんだな…と思う。
心配事を聞いたり、励ましたり、遠回しに気を使ったり…と、その都度
細緻な対応をするということ。

逆に、高かったり、大きかったりするときは、嬉しいってことなのだろう。
相手が誘い水を向ける前に、こちらから問いかけることで、相手をより
気持ちよくもてなすことができるかもしれない。

また、反応が鈍かったら、悩み事を抱えているのか、何か夢中なことが
心を捕らえているのかもしれない。注意を促したり、気を逸らしたり
励ましたりする必要があるだろう。



全くの他人や、他人行儀につき合うだけの顔見知りでは判り得ないような
細緻な変化を記憶し、応対し、異なった対応をする。
そのような内的アルゴリズムというか機関というか仕組みというかを、
頭の中に構築しているか、心の中に込めているか、それが有るかどうか…、

…それこそが、「心を込めた」対応であり、「心の籠もった」挨拶。
ということだと私は考える。