我々は存分に他人を呪おう!

  • 2007/04/30(月) 23:51:14

「私の呪いで彼奴は報いを受けたのだ」と考えるのも、
「報復を実行せずに、恨みを飲み込む代償行動」と
「偶然偶々でも確実に誰もを遅う不幸」とを、勝手に結びつけて
溜飲を下げる…というような、全く罪の無い形でネガティブな
感情を昇華させる為の安易だが確実な“作法”だと考えている。

また、例えば爪弾きにするという呪いの作法も、個人の視界の
中だけで遠近法を無視して、巨大な自分が弱々しい小人である
アヤツを鼻クソのように打ち据えて弾き飛ばすという目の前に
見立てた映像で代償行動をとっていたのだろう。それを行うには
相手が見えるがそれなりの距離が離れているの関係で行われて
いただろう。故に恨みの気持ちを悟られる感情を吐き出せた。
ただ、そのような代償行動も、それが流行してしまえば、
その行動を行っている事が第三者に知られてしまえば、恨みの
感情の存在が相手に伝わってしまう…というリスク行動にもなりうる。
ただ、逆に個人的その恨みの感情が見かけた第三者によって共有され、
それが伝播していった先には、口裏合わせの無い大多数による
特定個人に対する“イジメの構図”を作り上げるとができる…という
正に「呪い」の効果が“現実に発揮される”事にもなる。
のだが…最後の部分は私として推奨しない。

為政者の言う「夢の見られる社会」

  • 2007/04/29(日) 12:55:40

…直ちに問い返したい。

「誰の?」




「みんなで夢を見よう」と。
「ネガティブな事を言っていてはダメだ」と。
責任者の責任を追及するような言論を、封殺する方向で進んでいる。

その、今、醸成されている一見ポジティブな価値観は、
切り込んで言えば、
「未来が約束されている二世・三世」が、
「自由競争のプレッシャー」や、「特権地位の重責」などから
「後込み」をしてしまわないように…

…といった“偏狭な親心”で占められているようだ。



それを裏付けるように、「偉くなりたくない」と回答した子どもが
諸外国に比べて異常に高いという調査結果が報道されている。

大多数の庶民と呼ばれる側の子ども達は、幼き頃から、着実に
出世レースから脱落するような価値観が植え付けられている。

そして、極一部の私立系の子供らのみが、半ばお気楽に、
よく言えば自由奔放に、自己実現を…表現と言うよりは
表出と言うべきレベルで…行える意識環境が作られている
感じだ。その不可能を可能にするかのごとき理不尽な要求に
奔走させられるのは、その「偉くなりたくない」と答えた
多数の側の人間になる。

その不可能への挑戦が、常識を越える成果をもたらす可能性を
全く否定するつもりはない。が、その当たればでかい宝くじの
ごときものの効果など、全体に見れば微々たるものだろう。
宝くじが売られていれば、一部に億万長者は確実に出るが、
それにより国の経済水準は、生産力は、全く上がりやしない
ように。この比喩は本来成り立たないハズのものだけれども、
この国の保守的な経済界の中枢は、物珍しいものを潰すから
同じだ。


なにより、高度経済成長時代の「夢」とは根本的に異なる。
ただ「夢」と叫ぶだけで同じ効果が見込めるはずもない。

高度経済成長を支えた者等の子供時代は、戦後の一時期は、
誰でも、どこまでも、上り詰められる可能性が見えていた。
実体はどうあれ、それが正に可能であるかのように見えていた。
「エリート」が頭越しに割り込んでくることは無かった。

故に、「努力」に対し個人的意味があったし、価値があった。
熟練の先に社会的評価や個人的満足とが両立していた。
金儲けだけがインセンティブだと言うつもりはない。が、
金の亡者と言われるべきは団塊Jr.の側の人間ではなくむしろ、
団塊世代の側であろう。彼らが給与でしか就労のインセンティブを
与えられないと考えているからこそ、ネガティブ要因として、
追われるように競い合って働かないと真っ当な生活ができない
のみならず、生活そのものが、生命すらも脅かされる状況をこそ
作っている。
確かに、そのような社会環境の構築によって、就労・過労の
インセンティブは高まるだろう。が、そこに創造性は生まれる
であろうか?! はなはだ疑問である。ボロボロになって
努力するであろうが、それで生産性は上がるのだろうか?!
精神を病み自殺者は増えるだろうし、過労死も止まらないだろう。

名作はどのように人生の半身となるのか

  • 2007/04/28(土) 21:37:54

アニメやテレビドラマを毎週定期的に分断して観ていた場合と、
事後に全話まとめてビデオで完徹…ぶっ続けで夜明かし…で
見た場合と、その作品に対する親近感というか、一体感というか、
が生まれる。

それは「来週へつづく」によって物語が分断されていた間に、
個人が過ごした個人的な体験が、意識的無意識的に関連付けられ、
融合され、それらが物語の世界観や各登場人物の心理描写に対し
様々に加味され、物語の作者の手を離れた別の意味を持った作品
へと変わってゆく。

それは想像力が補ったと言ってしまって良いものなのか微妙だ。


それこそ「想像力」によって、よほどのクズ作品でも、名作に
劣らぬ教訓をそこに読み解くことだって可能だ。大空を漂う雲から
様々な映像を読み解くように、星空に星座の物語を描いた太古の
詩人達のように…。



ここで展開している映像メディア批判とは、このようなものだろう。
想像力という個人的能力の有無や、それが映像メディアによって阻害
されるだとか、映像情報が無ければ想像力が育つ…だとかいうような
ものだ…と。そのようには俄に考えられない。私は。
(前記事「物語の何が子どもの琴線と結びつくのか」の続き)


例えば、その完徹での視聴では、何本も詰め込みで見続けても、
それらがどんなに名作だと言われる作品ばかりであっても、
その場でいくら楽しくても、殆ど記憶にも残らず、生活の糧、
人生の滋養になることなないだろう…。

…よほどの運命的な出会いでもなければ。



筆者が空想に浸ったとして思い返すその体験は、そのメディアが
映画でなく文字メディアとしての物語であったから…であろうか…?!
そうは思わない。やはりそれは想いに浸る時間が有ったからだろう。


映画やTVドラマでも…例えば1960年代の少年が特撮ヒーローに
憧れて空き地を駆け回ってごっこ遊びをしたような…、少女が
魔女っこモノに浸っておママゴトをしていたような体験こそが、
そのような作品を特別とする体験を心に残すのだろう。
言ってしまえば作品の善し悪しなどではなく、そこでの体験の
善し悪しこそが思い出の評価を左右するのだろう。その自らの
体験と自らの「過去」となった記憶とが人生から切り離せない
特別なモノとなっているその不可分性が、その作品をこそ
特別な名作としているのだろう。

もちろん作品の善し悪しは客観的にある。名作は名作故に
時を越えて読者を魅了し続けるのだろう。

が、個人的体験においては別である。