キノの旅と銀河鉄道999

  • 2007/03/31(土) 18:45:06

長編の枠組みは「銀河鉄道999」と同じだね。

旅の目的があるか否かの違いはあるけれど。

あの時代は、999の時代は、
目的向かってモーレツに邁進していても、否が応でも足を止め
させられる様々な社会の軋轢が厳然とあったのだろう。
各駅停車せざるを得ないあの物語のように。
それがあの物語のリアリティだったのだろう。


そして、この物語(キノ)が注目される今の時代は…。

列車に例えられるようなモーレツに向かうべき
「旅の目的」など無い。
また、目的があっても「各駅停車」せざるを得ないような
シガラミもない。「超特急」が目的地へと誘ってくれる。
マニュアル・教本が、デジタル化された職人技術の再現が、
迷いも葛藤もなく、「第一線」まで導いてくれる。

「第一線」それは世界の終わりであり、広野へと続いている
世界の果てでもある。「気づけば、いきなり捨てられた」ような
空虚な気持ちしか残らない。

「卒業」すれば、いきなり実戦として投入されたような、
必要とされる職場へと連続していて、そこでの先輩・後輩
師弟関係の中で学び合い、その「学びの実践」が同時に
教育であり、成長の実感と新しい目的とが得られるような…
そんな関係はもう無い。

資格ビジネスは相変わらず旺盛であるが、その先は無い。


至極、今の現実を寓意している。

作品として支持・共感を得ているだけのことはある。





主人公は女性。
時の輪廻と反転とを感じさせる。

男性は意志決定をしない「選ばれる者」という受動的な存在となり、
選ぶという能動的な「選択責任」は女性の側に担わされている。
それが薄っぺらい俗人の「常識」、実体の伴わない幻想だとしても、
それは世紀末の日本にあって、紛れもない「真実」だった。

政略結婚に利用されるのが女のサダメ…といった価値観の
未だ残されていた時代と、見事に対照される。



999は同じ価値観にとらわれた因習を打ち破る動機付けを促したが、
ではキノは?

今、浅くとも同士としてまとまろうとしているSNSのような
コミュニティを、風刺している。


999は、サイエンスフィクションの装いをしてはいるが、
あの未来像は伝統の寓意として描かれている。

キノは、伝統・風習として描かれてはいるが、
「ああすれば、こうなる」という思考実験の結果として
世界を描いている。そこにでは常にその伝統をもたらした
事になっている「選択」が「結果」として描かれている。

その起源も知れぬ得体の知れない伝統の風刺などではなく。

ブランドとされたから有する価値

  • 2007/03/30(金) 18:40:15

「ミンナ」と同じものを購入する。おなじでないと怖い。
メディアで注目された物はとにかく買う。
有名ブランドの品を持っていなければ、不安でならない。

そのような傾向は、若者に当てはめるならば、
1980年代末以来の傾向では?

私的に言えば、金八時代的な価値観だ。

教師まで結託した“葬式ごっこ”のようなイジメが成立
するには、全教室的な価値統一が無ければ成立しない。
今時のイジメにそのような結束力を構築するパワーも
統一感も無い。個別バラバラで、小グループ的なはずだ。



(前記事「考えないようにみえるヒト」の続き)
著者が、ここ10年来の傾向だというが、それは、そのような

“「ミンナ」と一緒でないと怖いと考える世代”が、
社会人となり、金銭的な余裕から、ブランド買いに
走っているからであろう。世代の固定、年代の移行
だからこそ、市場価値として拡大しているのかもしれない。


ここ10年、TVの視聴率の伸び悩みなど語られて久しい。
それこそ、新しい視聴者を獲得できない現れだろう。
つまり、今時の子どもは当時ほど「ミンナ」に逃げ込ま
なくて済むようになっていると見なすべきだ。

今、TVドラマで30%越えできるものは、キムタクくらい
なものか…他に無い。それはつまり、視聴者が固定されている
ことの証明であろう。

逆に、今時の若者は、身近なナカマの拘束力がこそが高い。
が、言葉にすれば同じ「ミンナ」だ。その中身が違う。


「ケータイの普及とまったく軌を一にしている」?!

私には、とてもそうは思えない。携帯電話使用料に
支出の殆どを費やしてでも手放せないほどだろう。
流行の商品やブランド物に手を出す余裕など無い。
それが実体だろう。

いや、ブランドなんかに頼らなくとも、一体感を
実感できるツール。それがケータイであろう。
だからこそ、依存症になるのだ。ブランド依存症。
買い物依存症になる暇がないくらいに…。


だから、帰属意識の消失をもたらしたのは、間違いなく、
二段階説の時点だろう。私はそうとしか考えられない。

だからこそ、当時の若者は、未知の東京にでも飛び出せた。
一元的情報に曝されて、帰属の優先が地域から中央へと
その重要性が転倒したからだろう。
出あるき人間は、そんな未知の領域に帰属意識を持てない。
第一章で、地域密着型だ…と、そう書いていたではないか。

全く新しい形で地域性のある帰属感が芽生え始めている。
そんな状況を、無意識的・無自覚的に醸成しているのが、
ケータイ時代のネットワークだろう。
彼らの行動は、決して中央統制型にはならない。
彼らの行動は、決して地域を飛び出さない。


「所属しているというコミュニティの輪郭が見えない」
当にその通りだ。そして足の届く範囲のテリトリーに
留まっている。そうとも気づかずに。

「気づけば地元しか知らなかった…」とでもいうように、
当に集団就職以前の無垢の地元意識。いや、廃藩置県以前の
幕藩時代の郷土意識、田舎者根性が醸成されているのだ。
著者の指摘するサル化・退歩になんとぴったり来る形容だろう。

「果てしない砂漠のまん中で、見わたす限り人間が群がって
 いるようなもの」
当にその通りだ。祭などに群衆として集う参加者は、正しく
そのような状況であろう。死人が出るのが当たり前な狂乱…。
世界の全てを体現しているともいえる宗教世界の中で、
そこから見える視界は全世界でもある。

日本全体などという視点は全く無く、その中における自分の
位置など考えも及ばず、日々近隣世俗のしがらみに右往左往し、
自らが文化として教育されている独自性が、地域独自の文化
であるとも知らず、全人類的なアタリマエと思って疑わない。
異分子に感じる違和感や排除意識が、何に根ざしているかも
知らずに、発露する段階・環境。極端に「文化的」であるにも
関わらず、それの自覚できない状態。


そのように作られる帰属意識こそ、ある意味ホンモノの地域性、
環境に固有とも言えなくない偶然性だと言えよう。
未開の地の原住民に出逢った現代人が、彼らに「見出す」
文化性というものは、そういったものでしょう。彼らの自意識、
自己選択に因らず、強者から一方的に付与される。

かんがえるカエルくんにアテハメた

  • 2007/03/29(木) 12:29:36

「かんがえるカエルくん」
に対する正高信夫の思索 …に対して…。
(前記事「考えないようにみえるヒト」の続き)





このような問題を、ケータイにからめて理解する著者の神経が判らない。
それに気づいたのが、ケータイの流行の後だったから、絡めて扱っている
のだろうか…。

このような問題意識は、私は、1990年代の前半代に、
現代の抱える問題として痛切に認識していたものだ。

例えば、流行を創造しようと施策する大企業が、ひたすらリサーチ
というものを行うことの矛盾。そんな自意識の後追いで、大衆に
新奇性の与える商品や作品など造れるはずがないではないか。

流行に左右されぬ人間の総体をおもんばかって、今の流行との
対偶に位置する未知の領域に切り込んで行ってこそ、大衆に
衝撃を与えつつも引き寄せることの出来る作品を提示できる
はずだ。それは歴史を輪廻で測る“占い”とどこか共通する。
松尾芭蕉に言わせると「不易流行」の一語に尽きる。
アンケートに追従するだけでは、それの収集効率をどんなに
高めても、潜在的な渇望を見定めることは不可能だ。

故にその後、「クチコミ」という流行の萌芽へと企業が
飛びついたのは、飛びつかざるをえなかったのは、
アンケートリサーチの有効性に、ようやく疑いが生じた
からであろう。いや、疑わざるをえないほど、業績が
伸び悩んだ末の苦し紛れからだろう。


同じく、自己評価に基づくアンケートなるもので、
それに答えている回答者群の実体など計れやしない
ということ。

客観的に測れる収入だとか身長だとかは別だ。
が、感情の起伏、自己認識など、そもそも相対的であり、
絶対的な指標になりはしない。満足の有無を調べても、
その不満の中身が客観的に不遇と言えるものなのか、
単にわがままなのか。政治的判断に利用できるもの
には、なり得ない。

今の行政の姿勢では、わがままで傍若無人な自己申告のできる
傲慢な人間ばかりが援助され、内罰的で自制心のある自立した
人間ばかりが不遇な待遇に追いやられる構造が進んでしまう。

自己評価に因らぬ判定は、単に個人の自己実現のみならず、
このように社会全体の問題ですらある。

このような問題は、ケータイの発明、普及とは、何ら関係がない。
それ以前の問題である。





そして、自己認識の希薄化は、級友間の相互評価が失われている
ことであって、そのような人間評価が、例えば受験制度のように
客観的第三者、教師や顔の見えない誰かへと、中央集権的に、
独占されてしまい、個々人から剥奪されてしまっているから
であろう。
今学校にある他人の評価に曝される瞬間など、例えば、
面倒で損なだけの学級委員等々の役職を、特定の誰かに
押しつけるときに、多数決を取るような場面くらいだ。

他人の評価が有益に作用する体験を得られる場面がほとんどない。
目立てば嫉妬に起因するイジメの対象になるだけだ。

そのような状況にあって、神のごとき客観的第三者として、
制度を担う側が、公共事業よろしく、自己判断へと“丸投げ”
したのが、いわゆる「自分探し」という病の始まりだろう。
これもケータイとは何ら関係ない。

ただ、そのように破壊された心を癒す逃げ道を、ケータイが
担っている現状までは否定しない。ただ、因果が逆だ。と、
ここでも言いたい。

オウムの問題でこの章を締めているこの著者ならば、どこかで
このことを判っているはずだ。気づきかけていると信じたい。




そして、IT技術は著者が言ってしまっているようには
矛盾してはいない。例えばブログのようなものは、
自己の内面を晒し、まず自己表現を客観的に再確認し、
さらに、他人からどう見られているのかを確認するための
ものとして利用されている。

時に炎上し、社会問題にも発展するが、基本的に
他人の評価を得、それを自己選択する仕組みである。

「自己実現とは思いのほか、他人の期待にこたえることと
 合致するかもしれない帰結に到達してしまう。」

…かもしれない のではなく、そうなんですよ。普通に。
若者は、著者の懸念の先をすでに行っている。

いや、出あるき人間のパーティー形成の作法とは、
著者が的確に指摘しているように、まさにその前提に
則っている。




…とはいっても、著者には最終章で身体的模倣の有効性として、
話を展開したかった事情がある。そのレベルでは、ケータイに
軍配が上がることはない。私もその重要性を声高に叫びたい
心境だから、言葉を納めたい思いもある。

が、やはりこのあたりで展開している問題は、ケータイの
危険性を訴えるために、何でも関連づけて放り込んでしまって
いる感は拭えない。勇み足であろう。

なにより、言語習得ができなければ、そもそもケータイに
依存できるレベルに子どもは達せないではないか。
であるならば、逆説的に、言語未発達な子どもでは、
ケータイ依存症の危険はないと言うことになる。
ケータイが言語習得の阻害になるとしたい著者の主張は
ここで崩れる。


いやむしろ、ケータイで展開する言語的内容に興味を示すよう
し向けるためにも、著者の主張するような形で、身体的模倣的に
言語拾得を早々にさせる必要があるのだ…とも言い得るわけだ。

何の学習もしていない子どもならば、漢文や外国語の書物になど
一切興味を示さないように、ケータイにも興味を示さないはずだ。

「子どもの活字離れ」と叫ばれた頃から、言語習得に問題は
発生していて、無理矢理に強制的に何冊読書をさせても、
活字に慣れやしないってことだ。そこからの教育の問題を
指弾すべきだ。ケータイなどではなく。




身体的模倣による言語習得の大切さ。そこには私も異論はない。

「子どもは遊ぶのが仕事だ」そう言われてきたではないか。

遊んでばかりいる子どもを不良になると叱り、
プライバシーと称して個室に押し込んできた教育の誤りを正す
それでいいではないか。不用意にケータイ等に悪のレッテルを
貼ってしまうと、これまでもTVやゲームに悪のレッテルを
貼ろうとし問題の根本を見過ごしてきた愚策・失策を、
さらにもう一度繰り返すことになる。

治安不安がマスコミにより煽られ、再び子ども達は、
公園から追い出されている。
安全の御旗のもと、自宅軟禁が正当化されてしまう。