「一身独立して、国独立する」?

  • 2006/11/23(木) 18:40:43

その言葉は、一面において真理であるかもしれない。
しかし、現時点においてはあきらかに間違っている。
…と私は考えている。

今、その言葉を持ち出す者は、「フリーライダーを甘えと依存である」
と考え、「それを撲滅するために必要なスローガンである」と考えて
いるのであろう。

が、私はそうは考えない。おそらくそれらの連中が幅を利かせて
いるのは、「独立心に浅いから」ではない。逆だ

「独立心が高いからこそ」、「フリーライダー」を貫けているのだ。


だってそうだろう?!

そんな行為を広めて国の負担を拡大し、仮に国が倒れてしまった場合。
生きる行けないのは、“独立心の無い者だ”

もし、独立心の強い者であるならば、国が潰れてしまっても、
「他国に逃れ、生きれば良い」と考えているであろうからだ。

そんな覚悟が無い者は、一蓮托生で死ぬことを覚悟しているか…、
単に馬鹿であるのか…のどちらかだ。


「国など無くても良い」と考えているからこそ、国にしゃぶりつき、
しゃぶり尽くして、食い逃げを決め込む

それこそ、“完全に独立した個人”であろう。





今叫ぶべきは「個人の独立」ではなく、
「(独立した)反国者の分別」である! …と言うのなら、
フリーライダー問題に対する方策として理解できる。

今の時点で「個人の独立」を叫ぶ者に、その言葉でなければならぬ
確信があるのであれば、その真意は“弱者救済の停止”であろう。
「人権保護の放棄」と言っても良かろう。ようするに切り捨てだ。

そして、そのような方針で事を進めてしまえば、
滅ぶのは「国と運命共同体である者」だけだ。
独立と依存と国益と



始めに言った“一面の真実”があると言える状況とは、
例えば「他国への依存が強まっている時」だ。その時に
この言葉は「自国より他国への依存に弱者が流れるのを
止める力」となる。
帰属意識と独立心


B1,B2に居る人は、例え経済的にどんなに「自立」して
いたとしても、国が失われれば、その「自立」も続かない。

ちなみに、この図の分類はあくまで本人の独善的意識の問題で、
客観的な能力を伴って判断されるものではない。

例えば、経済が崩壊すれば成り立たない商売も少なくない。
もっと大ざっぱに公務員は職を失う。
伝統工芸等々腕に食えるものだって、文化的な価値の連続が
無ければ無意味な産業として淘汰される。

円でしか蓄財していなければ、資産は全て紙屑になるし、
純金や土地、美術品等々での蓄財していれば、自立を
保てるかも知れないが。

そのような観点からは、経済的な現時点の年収のような
経済的自立によって「自立」を限定し得ない。

もちろんそのような状況でも自立し得る者の中にも、
「その自立に意味を感じない」者にとっても危機である。




この言葉を使っている者に、切り捨てを進める意図は無くとも、
今の政府の対応を見ていれば、進められる未来は同じ事だろう。

例えば「パートに正社員扱いを!」と言っても、その方策は
「対象枠の拡大」でしかない。

今の時点でボロボロに働いていても、生活保護給付以下の労働者が
居るのに、そんな事をしてしまえば、確実に家賃か食費に食い込む。
ホームレスになるか栄養失調になるかの二者択一だ。
労働時間の細切れ化は進む。




故に、そのスローガンの用いられ方の中に
「国民の特定階層を一掃したいのでなかろうか?」
とも思惑も見えてくる。

'80年代からの価値観がそうであるように、未だに為政者が国民を
「総日本人=ホワイトカラー」であるべきだと考えているならば、
“人間生産国”として「外国人を単純労働力(奴隷)と扱うホワイトカラー」
ばかり生産することを続けようとするのも…よく分かる。

“見苦しい”単純労働者などは、早く死んで消えて欲しいのだろう。
老人等非労働者を含め、総じて国から消えてしまってくれれば、
税支出も大幅に抑制できる。国が自由に使える莫大な税金が残る。
大きな公共投資も国家的国土改造も容易に行えるようになる。

それによって日本は一部少数者(ホワイトカラー)だけの、
「美しい」国家となる。

国民は“綺麗な”仕事をしているだけでよく、究極には国内工場は
すべて機械化してしまう。人力を要する工場は、これまで通り
海外に作り続ければよい。想定する国内人口は極々少なくて済む。

国土を“見苦しく”埋め尽くしている庶民の粗末な住宅を一掃し、
再び「美しい」自然に返してしまうことだってできよう。

“未開なだけ”の過疎地を一掃してしまえば、煩わしい住民の反対も
無く、スムーズにどこにでも自由に原子力発電所でもゴミ処分場でも、
米軍誘致でも大ダムでも“文明的な”施設を、どんどん作れる。



その結論は、先の大戦の教訓からも導ける。
「戦中の貧困によって、大多数の弱者を掃討できたからこそ、
戦後の力強い経済復興が成しえたのだ」…とすれば。


過疎地農村を潰す…それが自治体の消滅として数の減少として
数値的に現れれば、その問題は国民に強く意識される事になる
であろうが、すでにその大多数は平成の大合併によって、
見え難くしてある。準備万端だ。
「倒産した自治体ゼロ」を掲げたまま、大多数の過疎地町村を、
どんどん潰してしまえる。




敗戦前は、戦中に「疎開」させてしまった事によって、
多くの国民のマインドを農村化させてしまったが、
今度はその「過ち」を繰り返す心配も無い。

あれによって、国民が「日本人農耕民族論」のようなものに
説得力を感じてしまったのだし、そのマインドによって、
社会主義的なイデオロギーを強めてしまったのだが、それは
すでに学習している。二の轍は踏むまい。

直ちに戦争に至るわけでもない現代の状況では、大多数の国民を
都市に集めて被る損害を計算に入れる必要も少なかろう。
安上がりに国民を保護できる(飼える)。

右翼的保守的全体主義的国家として国家管理しつつ、
「資本の暴力」を、国外でぞんぶんに振るえる国家体制を
作り上げることができる。

今の日本国民ならば、上手く綺麗な理念だけを唱えているだけで、
そへ纏める(扇動する)ことなど、極々容易いだろう。





とは言っても、
そのような西欧にとって二〇世紀的な“二番煎じ”を
国際社会が許すはずはない。

そうであれば、どのような形を取るのか…。例えば、
そのアメリカ的搾取構造をすでに窮め尽くした御当地から、
国際世論の上に綿密に暴かれ、事後法的に賠償させられる
とか。当然、諸外国がその動きを見せた時には既に手遅れで、
糾弾者の真似をしただけだ…との弁護も通じないのは、
平和に対する罪として植民地政策を糾弾された過去が
物語っている。

それとは全く逆に、“弱小国の暴走”という形態をとって
「驚異の排除」が間接的に実行される可能性も、また
ゼロではないわけで…都心部に集まった日本の人口を
削ることはあまりに効率的(狙い目)となっているだろう。