我慢と自業自得

  • 2006/11/30(木) 23:49:23

我慢」という「堪え忍ぶこと」を意味する言葉が
安易に使われているが、殆ど統べては用法として
改める必要があるのではなかろうか?!

“我慢”は本来、「我に満ちる」という意味であり、
“高慢”や“慢心”という意味に近い。

そして、その自分の“我を張る”ことを原因として、
「我慢」の今日的意味である「堪え忍ぶ」がある。
言い換えると「“自分の拘りの代償”としての苦境」。

本来それをこそ形容する言葉であるはずなのだろう。


しかし、
自己の自我とは何ら関係の無い…天災や犯罪被害、
政治の犠牲者が、苦境に耐えている様を「我慢」と
言ってしまっている。

私はそこに、その発話者にこそ“傲慢”や
“他者切り捨ての精神”が根深く染まっている
事を感じてしまう。





“我慢”…その言葉が使われる時、その対象・本人の
“強い意思”が伴っていなければならない…と、私は考える。

ただ理不尽に堪え忍んでいるだけの状況に、“我慢”とは
使いたくない。

もちろん理不尽な境遇であれ、その状況に積極的に
立ち向かっている時に、“我慢”との言葉は相応しい
に違いない。

さらしものの必要性もあろうに

  • 2006/11/29(水) 23:47:27

晒者にすることは、罪人に社会的制裁を与えることであるが、
それはまた同時に、罪人に許しを与えその認識を共有する場
でもあっただろう。



現在では、前科者対する偏見は容易に拭えないことが問題と
されているが、それは逆に言うと当然であると言えるのかも
しれないと考える。

お勤めを終え、罪を償ったのだから…と、罪歴を隠したり、
罪を償った者が、なお差別に苦しむのは不当に罪が加算さて
いるのだと見なしたり…と、その隠匿の法治下で、善悪が
大衆の中で共有されてゆかなくなるのは当然のことだ。



「モラルが乱れているのは教育が悪いからだ」と言われるが、
私に言わせると、法体系が悪いからだ と思う。
それは「政治が悪い」という表現でも良いはずなのだが、
こう言うと立法とは無縁の「権力者が誰であるか」という
ような感情論として受け止められてしまう。未だ日本は
大名統治下の封建的治安機構が根深く染みついている。


罪人を罪人として晒すことは、何がどの様な行為が罪であるのかを
社会で共有することであるし、罪人が罪を犯した酬いとして、
どのように苦しんでいるのかを現実に目の当たりにすることによって
犯罪抑止に繋がるという側面もあったろう。

それらを総じて隠匿してしまっている今の法治構造では、
モラルが育ってゆかないのも、なるべくしてなっているのだ
と言ってしまうべきであろうと考える。





もちろん差別を放置すべきだ…と主張しているのでもない。

ただ、犯罪被害者に対し社会が罪人に対して許しを求めるのも、
それを認め得るだけの社会的な安心感を取り戻すことも、個々人に
帰して済ませてしまえるものではないはずだ…と言っている。


何より今の報道の作り上げる社会構造のあり方が悪い。

罪の確定していない…冤罪かも知れない…罪人だと言い切れない
者を吊し上げるような形で、社会的制裁を繰り返している。
そんな中では感覚が麻痺してしまう。

罪が確定した者をその確定した罪によって善悪を共有する訳では
ないから、無罪を主張する者が同時に存在する中で、具体的事例
としてそれを規範意識に反映させることは出来ない。

それをしてしまえば、事件報道はできなくなる。いや、神話化
せざるをえなくなる。誤った報道ができない。報道を誤っても
白を黒にしてしまわなければ、治安意識が緩んでしまう。
だからこそ、警察無謬・官僚無謬の神話を作り上げる片棒を
担ぐことになる。でなければ、怖くて報道が出来ないから。





人と人が安心して暮らせるのは、
一つには同一の価値観を共有し、お互いがそこから一切
はみ出していない事を前提と出来る状況を作り上げること
だろう。であれば、何ら不安を覚える必要はない。

しかしながら、そのような世界では、確実に他人と異なる部分を
誰もが確実に保有している個性ある集団では、自らがの個性を、
人格を、存在を、否定しながら生きてゆかねばならず、そこに
罪の意識を感じ続けなければならない。

逆に、そんな共通の価値観をなんら持たなくとも、
どんな場面で感情を抑制できなくなる…だとか、
どのような隙を見せればそこに付け込んでくる…だとか、
相手の行動パターンを知り尽くしてしまうことも、
不安を感じなくなる一つの手段だろう。
いわゆる「底が知れる」と言う状況だ。


そこでは、対応は人それぞれに個別に異なり「誰もを同じに考え、
同じように付き合う」ことは出来なくなるであろう。
しかし、そんな制御されたロボットを相手にするような社会より
遙かに豊かな社会になるのではなかろうか。

そして、精緻に社会参画している者ほど、多くの成員を知り、
安心した生活を送れるのであって、社会から隔絶して他人と
関係を結ばない者ほど、社会に不安を覚えるようになるはずだ。

逆に言うと、「誰もが同じ」というという神話を作り上げて
しまったからこそ、他人に無関心でいることに安心を覚える
ようになったのであろうし、その無関心が犯罪を助長させる
ことにもなったわけで…。

嘲笑制裁

  • 2006/11/29(水) 12:30:16

嘲笑は社会規範から逸脱した者への制裁である。

それはそれのみで社会を構成する為の一つの機能であり、
それを認めなければ、場合によって社会の機能を破壊してしまう。
民主的(大衆優位)社会で有ればあるほど、その危惧は高まる。

そして、
これこそが昨今話題の「いじめ問題」の根本的な部分に位置する。
イジメが深刻化するかどうかのターニングポイントでもある。

些細なことであっても、イジメの標的となるきっかけは、
子どもの中でのそのような「逸脱」の「気づき」にある。
自覚的であるか無自覚であるかに関係なく。




だからといって、その行為のみで善し悪しが決し得るはずもない。

尤もな社会規範、公正・正義に基づいた嘲笑であれば、それを
禁止してしまえば、モラルは壊滅的なダメージを受ける。

その「逸脱」の中身による。


例えば、「逸脱」が人一倍正義感に篤く、怠惰な側がそれを
邪魔で煙たく思っているのであれば、当然ながら制裁すべきは
「嘲笑」を浴びせる側。いじめる側を指導する必要が有ろう。

また例えば、社会規範からの「逸脱」が嘲笑されていて、
イジメ被害者の側が、その「逸脱」に気づいていない場合
もあろう。その場合の指導は二つに分かれよう。

子どもの多数が「逸脱」と感じている特徴を教師が見定めて、
その内容を、客観的にいじめられる側にも気づかせてあげる。
その「逸脱」が本人が意識すれば簡単に直せるものもあろう。
それによって態度の変更に勤めるか否か。その決断を本人に
意志表示させる。

その「逸脱」が極々他愛のないことであっても、なんであっても
「転向は即ち敗北」だ と見栄の固まりであれば、その意志表示を
そのまま受け入れる訳にはゆかない場合も中にはあろう。ただ、
その「逸脱」は客観的に認知させる必要がある。



もちろん、「逸脱」を意識させずに無自覚なまま、子ども自身の
同調行動の行き着く先として自然に修正される見込みがあるの
であれば、その方が指導として正しい場合もあるかも知れないが。


その「逸脱」が、子ども自身の夢やプライドに関わり一生を左右する
ものであれば、その「逸脱」は夢を実現させるために避けて通れない
障害として、それに立ち向かう覚悟を促すのが正しい指導であろう。

モラルや規範や個人的拘りとは無縁の、回避不能な身体的特徴で
あったり善悪の指標となり得ないものであれば、特徴は特徴で
認めるとしても個性は個性として受け入れる態度を、その他大勢に
指導する必要が出てこよう。




ともかく指導は欠かせない。
ありのままの個人を、完全に隠匿し、見て見ぬフリをする
…欺瞞によってさも平等であるとでも言って…偽りの指導を
取ってしまっては、互いにとって不幸である。

そのように扱われていることに、子どもの側で自覚されてしまえば、
「偽りのペルソナを被り続けなければこの世界では生きて行けない!」
という事を学習することになるであろうし、無垢にもそれを自覚して
いなければ、将来どこかで必ず衝突するであろう困難に対して、
事前に免疫を身につけておくチャンスを奪うことであり、
「自分を知る」という個人の持つ根元的な欲求を抑圧する
ことにもなりえよう。

そして全体では個性を認めない息苦しい社会へと誘導してしまう。






「個性」としてその後の人生の糧となる特徴である
「みにくいアヒル子」タイプもあるわけで、過保護の
是非も個別的に考える必要がある。

“生得的特徴ならば、何が何でも指摘してはなぬ”とでも
言うような形で、表面的に正論っぽい人権論がまかり通る
風潮があるが、それは、「悪平等」と言われる根本であって、
多様性の否定であり、個性の否定でもある。

日本の不幸は、多様性を認めるべきはずの社民の中に、
「善悪二言論」のような形で、画一的価値観が拭い難く
残り続けていたことであろう。
戦前から通じる暗黙の前提に無自覚なまま、あらゆる論説の
論理構造に、根を張っている。それらは、意識的に取り除き、
言い変え、語り直しをしなければならないように思う。


当然のように通用している「説得力」のようなものの中には、
無意識の前提との整合性に流される瞬間的な印象だとか
過去の正論との間の類似性のようなものが含まれている。

その無自覚の究極の先、無責任の先にあるのが「空気」と
いう言葉によって表現される圧倒的な人心強制装置が
生まれてしまう。

何故、あんなバカなことを! あったりまえじゃないか!?
何故、誰もその時に気づかなかったのか?!

そのような後悔によってトラウマを刻むべきではない。





当然、子どもの側には「面従腹背」という選択しも有るのだが、
それを道徳の象徴である教師や学校関係者が「教える」訳にも
ゆくまい。
それはよりローカルな関係の中で伝えてゆかねばならない。
先輩後輩の関係であったり、大人を含めた地域サークルの
ようなもの。
ただ、治安に過敏すぎる今の日本は、どのようなサークルも
非行の始まりや、反政府活動の萌芽として認知される段階が
早すぎるように思える。だからだろう、どんどん萎縮し、
消滅していっている。