目の中に入れても痛くない

  • 2006/10/01(日) 20:02:52

それって、本来「傍ら痛い」の否定語ではないだろうか。
「視界に入れ(傍ら)ても不愉快(痛い)にならない」といった感じで。

なんだか、とても良いような意味で使われがちですが。

そう変わってしまったのは、
「出産の痛み」を「鼻から西瓜を出すような」と比喩する
ように、「目の中に入れる」という描写を物理的に押し込む
…という意味にしか読めなくなってしまった…維新後の
西欧的合理主義の影響…ではなかろうか。


…といっても、
汚く躾のなっていない子供は、大人社会から見て、
当然のように「傍ら痛い」ものであったのかもしれない。
それが「常識」であれば、視界に入れても不愉快でない
とうのは、相当程度の誉め言葉であったろう。
貴族が差別階級と言葉を交わすというような感じで。


よって、ともかくこの言葉は、本来、
誉め言葉ではなかった…のではなかろうか。と考える。
故に、誉め言葉としては使わないようにしようと思う。

美しい日本語?

  • 2006/10/01(日) 12:58:51

そもそも「日本語」は美しい物ではない。

その成り立ちはチャンプルである。
外圧に浸食され形を変え続けてきた総体が今の日本語である。

「基本に返れ」と古い定型を持ち出してくるような「先祖帰り」が
持ち出されるが、日本語の日本語たる核心は、そんなところにはない。
おそらく。

明治維新以降、
アジアにおいていち早く西欧文化を吸収し、経済発展技術革新できたのも、
漢字仮名交じりのチャンプル言語を使っていたからこそ、知識移転と、
技術・概念の共有・初等教育も早急に実行可能だったのだろう。
例えばカタカナ、ひらがなの表音文字の重複性という無駄さが、その
美しくない共存が、外来語表記を意味分けする「今の日本語」を生んだ。
それもおそらく体制的なものではく、無意識的に広がったのでは?

あの時点で中国にそれができなかったのは、漢字という完結した文化
容易に変容し難かったからだろう。陰陽五行の体系も含め(ただ、
デジタル時代に入った今、筆記の知遅鈍も解決され、大量の情報を
少ない面積で表現できる漢字文化に優位性が生じつつあるだろうが)。


むしろ、その成長する潜在性を持った言語としての日本語を、
合理的でなく無駄が多すぎるジャンク遺伝子の総体のような日本語を、
それ故に、その部分こそが美しさの源泉である…と私は考える。