見るもの全て

  • 2006/07/25(火) 12:28:25

見るもの全てに怯えないで
明日は来るよ 君のために♪

怯える事と、明日の肯定との間に飛躍があるのが判るだろうか?
が、この歌が流行していた当時にあっては、その飛躍も、説明無しに
当然のこととして埋め合わされ理解されていたのだろう。

この「存在を無条件で全肯定する」かのような、過保護な歌詞を
どう聴くだろう?

今、新しく聞く者には、あたかもニート・ひきこもりのような存在を、
肯定しているかのように受け止められるだろう。だから、あの時代は
軟弱でダメだったのだ…と、現行の問題意識を肯定する材料とすら
なるかもしれない。



しかし、その「確信」が、どんなに承伏し易かろうと、当時の者が
そのように解釈していたわけではあるまい。そこには、

アスファルトに咲く花のように♪


…なる歌詞がある。

決して、ニート・ひきこもりのような温室育ちが、何のチャレンジも無く
ただ全てを拒絶し何もせず閉じこもり、何もかもに怯えている…という
ような者を対象に歌っていないということだ。

その比喩には、
あらゆるものに絶望してしまうほどいろいろなものにチャレンジして、
尽く失敗してきた者の持ちかけた絶望を対象にしているのだろう。
見るもの全てと言うに足るだけのものを見て体験してきているのだ…と。

その、体験と失敗の経験を、無駄ではない…と、それこそが未来への
糧だと財産だと、それでも最後には挫けずに前に進むであろう
「キミ」に対して、明日は来るとエールを送っているのだと。

作詞家の意図がどこにあろうと、そのように解釈され許容された
のであろう。

それ以前の流行歌の文脈からも、野に咲く花というのは、虐げられ
踏みつけられてきた存在を意味を持って歌われてきたのだから。



…とはいえ、メロディラインから音調から、ぬるま湯の楽園の
印象を持っていることも否めない。
ひきこもり肯定の温室時代と、それ以前の弱肉強食時代の実感を
残す最後の世代との分水嶺となる位置に歌われた歌だ…とは
言えるかもしれない。