「社会」の再獲得までの道のり

  • 2010/06/07(月) 20:15:42

〈私〉時代のデモクラシー (岩波新書)
宇野 重規
岩波書店
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話、半分まで読んで、何を今更?

20年前からタイムスリップしていた人の発言?

…なんて感じてしまった。


三章からの政治との絡み、四章以降の提言は、
確かに、この後における「社会」の再獲得の
処方箋になっているように見えなくもない。
論理的には、正しい結論であろう。



しかし、著者が本書で なんども参照した
マルクスの同時代人である
トクヴィルの説いた「平等化」
ではなく、
マルクス主義が当世人のリアリティに適合し、
彼の論が重んじられることはなかったのか…を、
彼なりに、整合性を持って理解されているのだろうか?


確かに、不平等感の顕在化が、平等化を推し進めた結果
であったとしても、それが単に実感の問題だったとしても、
その不平等感は、不平等感のままで、実際の不平等状態
自体が拡大することはない
と言い切れるだろうか?
そんな保証はない。現に拡大していると考えるべきであろう。
定義できてない不平等は、存在していないわけではないのだ。

学者が定義できず、狼狽えている間に、庶民の実感は、
現実の不平等は、拡大しているかもしれないのだ。いや、
新たな別の壁によって覆い隠されたまま、着実に拡大
している…と私は考えている。


幾らかの人が、個別に指摘しつつあるように。




新たな「社会」の獲得は、著者の言うような
リスペクトの配分なんて手法で獲得されることはない

というのが私の予想だ。いや、現実的な予測だ。

理想として、著者の言うような手順を この社会が辿るならば、
それは その方が良い。理想的だとは思う。思うがしかし、
もはや手遅れだ…というのが私の見立て。


新たな「社会」の獲得は、このような手順を経ると
私は考えている。つまり、


見えないまま拡大する不平等によって富を得た一部の勢力が、
その個人的野心の実現のための「物語」が、核として作られる
であろう。
というのが私の見立てだ。
生存権すら脅かされるに至った諸個人が、初めは生きるための
他にはない選択肢として、やむにやまれず追い込まれる形で
あろうが、「物語」に参加する。それに続き、自らでは夢も物語も
神話も描けない個々人が、そのような「物語」によって役割を得、
自らの存在の意味を得る。生きる喜びも得ることになるであろう。

結果、自己を投影する対象として、自ら選ぶ。そんな「物語」が、
参与する対象と成るであろう。


その延長線上として、組織は社会へと拡大する。



もちろん、そのようなものが、いきなり社会にとって
自明なものとして現出するわけではない。
凡百の一として
すでの萌芽しているそれが、勢力争いの結果として、
結果としてそこにあるものとなる。その時点でも、未だ
社会とは言えないような弱小集団であったとしても、

個人が個人として分断された環境の中で、砂粒を雪だるま式に
吸着する粘土として働き、一気にふくれあがることになるであろう。


これは、高度経済成長によって日本企業の終身雇用神話が
作られていった過程とも、さほど変わらないはずだ。

軍国主義の時代、天皇に意識を直結させる事によって
個人で完結していた国民
が、その接続を断たれ、
個人として砂粒のように解き放たれた国民が、急速に
企業という未知であるはずの集団へ回収されていった。


道徳や規範のようなものは、しばしば「昔から」そうだった
と理解されるが、実際はそうではない。これもその一つであろう。



今の「平等」の意識など、何故そのようなものを信じていたのか
理解できないほど唐突に、蒸発してしまうだろう。

戦後、何故天皇を現人神と信仰していたのか理解できなくなったように。

ただ、平等という言葉そのものが理解できなくなる訳ではない。
ここで言っているのは、一億層中流の幻想を共有していられた
あの頃に戻ることはできない…と言う意味においてだ。


一巡して、再び同じ状況に辿り着くことができたとしても、
それはまた別の経路を辿ってそ、こに辿り着くことになるだろう。
そして、全く新しい、過去に無いものとして理解するのだろう。
バブルの時代を生きた者がその平等を、戦前の天皇の前の
平等
や、江戸時代の庶民中での相互補助としての平等と、
決して同じ平等だとは、再び獲得したものだとは、見なさない。
…見なさなかったように…。



長子相続と末子相続…的な違い

  • 2010/03/13(土) 21:31:48

私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)
内田 樹
文藝春秋
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結論として結ばれた

反ユダヤ人主義者とユダヤ人との
アナクロニズムの逆転した関係性というのは、

長男と末っ子の関係に根源的に相似して見える。


そしてこれは、旧約聖書に末子相続が
しばし描かれていることと無関係でもあるまい。
と繋がった思いだ。



解説すると、

長男は常にその行動は自らの試行錯誤の中で失敗し、
親や世間に叱られることによって学習する。その
習得パターンは、罪と贖罪の連鎖によって培われる。

それはつまり、自分の行動を抑制する行動規範は常に、
同じ過ちはしない、より良く生きるための当然の帰結
であると共に、現実的な自らの失敗や罪の贖罪の意味を
不可分に負っていることにもなる。



その点、末っ子は違う。
弟は宿命的に、先達者としての兄たちの失敗を幼少時から
見て育っている。何をすれば叱られるか、何をしなければ
失敗しないかを、多くの場合自らが経験し、または失敗
する前に知ることとなる。

それはつまり逆に言えば、失敗してもいない…犯しても
いない罪によって、自らの行動を抑制していることに同じ
である。もちろんそれは、そうしなければ犯すであろう
罪を失敗を事前に回避している行動に他ならないものでも
あるのだが。



そしてこの両者の間には、罪の有無という分かち難い
差異が生まれてしまう。
もし、社会が罪を過ちを許さない
状況にあれば、兄は何かに付け過去の過ちを論われ未来が
望めない。
末っ子は、兄の失敗を踏み台として、その上を
何の贖罪(投資)もすることなく、フリーライダーとして
駆け回ることになる。
両者の間に絶対的な不公平が生じる。

弟はその嫉妬を回避するために犯してもいない罪を兄と共に
背負うことによって先達者への敬意を示さなければならない。


オイシイトコ取りをして、それを実力主義の結果だとか
神の見えざる手によって得た正当な報酬だとして、
それを怠ることは、ある意味ではやはり罪ともなろう。


もうすこし具体的な例えを示すならば…、汗水流して作り上げた
鉄道網を、実際に重労働を押して作り上げた者達は、その当時の
安い賃金だけで完成と共に放逐され、完成した後に入ってきた
者達は、切符切りだけの軽作業にもかかわらず、その賃金収入で
左うちわで暮らせる永遠の未来が約束される…と喩えてみたら
どうか。



しかし、社会が長子相続の常識の元では、弟たちは家から追い出される
運命にある。仮に実力主義であっても、出生の遅れはそのまま
埋めがたい経験の差として乗り越え難いものである。
結果弟連中は、
新規事業を興し、またはニッチで食い扶持を探さなければならない。
だから、たとえ時の運だったとしても、時代を変える新規産業を
一から立ち上げた創始者となれば、それによって、既存の社会を
どんなに変えることになったとしても、当然の結果だと考えがちだ。
社会から放逐された者が、目には目をで過去に自らを放逐した連中を、
逆に放逐し帰して何が悪いか。となりがちだ。悔しければ同じように
新しく成功すればいいのだと。
しかしそれも、努力だけでどうにも
ならない側面もある。





歴史や経緯があって、それらが消しがたいものであることは判る
つもりだが、やはりこれを「ユダヤ人」という言葉一つによって、
概念を丸抱えさせてしまうのはどうかと思う。


原罪という考え方はキリスト教のものであると思うし、彼らは
ローマのマイノリティとして「ユダヤ人」を担ってきた経験の
上に構築されているはずではないのか。
また、同じ立場はカトリック社会の中のプロテスタントたちが
背負おうとしていたものでもあると思う。ユダヤ人だけに独特な
ものとして独占させてしまうのはいかがなものだろう。


現在「キリスト教」として信仰されている宗教環境は、キリスト教
だというより、ケルトなど原始宗教とチャンプルされたそれであって、
自称「敬虔なキリスト教徒」が、保守として守ろうとしている原風景
のようなものは、決してキリスト教固有の信仰そのものだは言えない
のではなかろうか。


同じ事を、「ユダヤ人」がその信仰の根源としてキリスト教や
反ユダヤ人主義者とは異なる独特のなにかを潜在的に持ち続けている
と考えるのも、どうかと思うのだが…。
現在イスラエルの地で彼らが
行っていることを見ると、とてもそのようなことを私は信じられない。

凡人を誇る≒稔るほど…≒金持ち喧嘩せず

  • 2010/03/01(月) 22:24:39

凡人として生きるということ (幻冬舎新書)
押井 守
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読み始めて、その頭からガッカリだ。

彼の言う「若者」とは、彼の立場から見て、
せいぜい三十歳くらいまでしか視野に入っていないようだ。

今の10代、20代を想定して言っているとは思えない。

ただ、純粋に育ったゆとり世代は、そのデマを、素直にそうなんだなと
思い込んでしまっているだろう。彼の言う“デマゴーグなきデマゴギー”
彼自身が垂れ流しているのだ。


彼らのように今の若者が「若さを価値だ」と思っているのならば、
草食系や公務員指向をこれほどの規模で示しているような事はあるまい。

彼らは、彼の言うような意味で「若さを価値だ」なんて信じていやしない。
ただ「若さは価値だ」という価値観の前に服従させられているのだ。
もしくは面従腹背しているに過ぎない。

「はいはいそうですね、若さには価値があります」
と。

そして、彼が認める趣味人が自分の趣味を家族や世間から隠すように、
今時の若者は、自分の趣味やアイデンティティを守るために、
「流行ファッション」という鎧に身を隠しているにすぎない。
そうしなければ、馬鹿にされる。蔑まれると言う意味において、
両者にどの程度の違いがあるというのだ。
胸を張って堂々と「痛車」に乗れるほどの自尊心を兼ね備えているのは、
二十代の成功者くらいのものだ
、彼に比してオッサンも今時の若者も、
同レベルだ。

その信仰への否定があえて必要になっているのは、もはや壮年期以降の
存在だけだろう。



5章まで読み終えて、上記の懸念は幾らかフォローされてはいた。
少し安心した。
しかし、当然と言えば当然だけれども、論理の
組み立てや前提が、立脚点が、彼の世代で偏っているな…との
考えは変わらない。


1〜4章と彼なりの世界観を示し、その世界観を基盤にして、
今時の若者を理解するための指標としている。
その「大人の側に通用する指標」によって、今時の若者を、
理解しようとしている。

もし、若者にアンカーを掛けて自分の世界観を教示しようとするならば、
5〜6章を頭に持ってきておいて、その共感を基盤にして、その世界観を
世界の真理であるかのように描く事もできたはずだ。
そのような描き方は
彼の目的には反しているのだろうけれども。そして、また別に、この順番で
書く事によって、まず自分が許容され、許容された自分が、その自分を
守るために、老人の側を説き伏せる武器として、1〜4章の内容を
対比させて描く事もできたであろう。


そうしなかった事によって、やはりこの書は、アラフォー以上の世代に向けた
作品なのだろうと思う。
彼らの目にはとても好意的に見えない若者世代の
現象を、彼らに理解できる理屈でもって好意的に読み替える事ができるように
促すような作品になっている。


それらの中間世代である私にしてみれば、7章に結論のように描かれている
こと…嫉妬…は、すべての出発点である当たり前の常識
であって、それを元に
1〜4章で示していたような構造の理解を組み立てたし、同時にその後の若者に
現れている現象を理解した。

学生運動ブームの時の大学生と高校生の生活環境の物理的な違いが、それを見る
視線を決定的に変えたのではないかというような着眼点は、なるほど新鮮だった。
「(隔絶された引きこもり)アパート ← デモ → 自宅(親も世間もある現実)」


ただ、911後のアメリカを見てもなお「日本人は行き過ぎてしまう傾向がある」
だとか未だに言っている感覚には、いささか辟易する。


映画の宣伝で締められているあとがきに、若者に向けたメッセージだと書かれていた。
若者? 盛年の間違いじゃないの?
 その「若者」に10代は含まれていないでしょ?
バブルの頃から若者と言えば、学生の同義語になっているように思うのですが…。


あと、無批判な動物崇拝にも、何度もウザッと思った。野生動物にだって
親殺し子殺しをするし、小児性愛を示す事もあたり前にある。ロリ需要だって、
彼の言う文明化以外にも需要拡大の要因がいくつか考えられるでしょうに。