擬似的上映権(造語)

  • 2010/02/18(木) 00:41:44

これは私の印象ですが…、
一つ目のピークはAポーイのような形で、一般への嫌悪の障壁が崩壊した現象で、女に貢がず貯蓄のあった非モテの財布を狙った経済現象で、それに目をつけた政府が音頭をとって進めたのが二つ目のピークかと。

久々にそんなコメントを以下のブログに残した。

アニメのビデオソフトの売上がどのように減少しているかをまとめてみた - longlowの日記

以下はその関連で思いつきを殴り書き。


そこでは1990年代以前の検証はありませんが、昔は映像ソフトを買うという行為は、一種の上映権を買っているようなもので、友達を誘ったりして「見せてやる」という優越感を得るための消費であった感じがありました。
これは、20世紀少年でも描かれていたような、漫画雑誌の回し読みに似たコミュニケーションの再来。
その後、そのソフトは個人消費の対象となる。雑誌が回し読みから一人一冊購入に近づいたように(ジャンプ黄金期)。さらに遡れば、弁士の付いたトーキー以前の映画上映なんかは村の有力者による上映権の消費であったろうし、テレビが爆発的に売れた期間も、店先・街頭に置いて放映し、客引きも兼ねて一般上映していた。そういったサイクルは現に存在する。

アニメの個人消費の時代(2000年前後)、潜在的な需要がありつつも、未だアニメソフトの発表数が少なかった。個人としてアニメ漬けになりたいほどの需要は、高価ながらも買ったソフトを何度も再生するという形で満たされていた。それが一部の作品だけのメディア化が、DVDなどの普及に伴って販売メディアの絶対数が増加すると、個人の有限な時間では例え買っても鑑賞するに十分な時間が取れなくなってくる。00年代半ばからは、新作の増加によって、新作放映を見ているだけで十分、再生メディアを見る時間が取れなくなる。もしくは買わなくても欲求を満たせる状態となり今に至る。



上映権に例えたような欲求は誰にもある。しかし、それを満たせるのは、経済的に豊かな者(親が)であるので、それが進むのは経済格差が増大したときである。そして、この時代に優越感を感じる者の反対にその何倍かの量で、劣等感や欲求不満を抱えた者が生まれる。彼らは大人になり経済的自立を始めた頃に、欲求不満の解消にも似た消費行動に出る。ベーシックには「いっぺんやってみたかったんだ〜」といって大食いするとかね。これも、例えば誕生会など友人の家庭にお呼ばれして、今の自分に消費できないものの存在を知る機会があり芽生えた願望であろう。その後テレビが贅沢を宣伝することになる。基本的に人は知らないものを欲求するなどということはことはない。

そして、「擬似的上映権」(経済行為でない上映をここでは便宜的にそう呼ぶ)を満たしたい子どもが生じていたであろう2000年代中盤以降、それを満たすべきメディア環境がなかった。その欲求を満たしえる存在は、たとえばそこで上げられている「動画投稿サイト」とそこでの擬似的なリアルタイム感。この時代、消費としてその欲求を正規に満たせるような環境がなかった。

太古の昔から、人は(動物も)劣等者に「餌をやる」行為に喜びを感じるものだ。平等主義・個人主義と、大量消費の「常識」が、経済原理からその欲求を満たすことの重要性を失わせてしまったのであろうか。



この間、擬似的上映権と、そこでの優越感と欲求不満を経済行為として演出できていれば、その子供は大人に成ってから消費者に回っていたであろう。我慢させられた欲求不満は、大人になってから長続きする。子供の頃に満たされた欲求はすぐに飽きる。そして、大人は新しいものへの興味が薄れているので、消費者としての囲い込みもやりやすい。

メディアの携帯電話への移行も、個人主義的な情報消費の体制を作りはしたが、上映権に似たものを消費させるには、メディアとして規模が小さい(小さい画面を顔を突き合わせて見るのでは限界がある)。また、そこでは、擬似的上映権のように一つの消費を済ませば、後は何人に見せようがタダというようなものとして想定されていない。また、デコメや着メロの贈与のようなものは、「餌をやる」行為には違いはないが、対象の決まった一回きりのプレゼントであって上記の意味での上映とは言いにくい。ただ、個人登録の着メロは、周囲の人間にお気に入りの曲を強制的に聴かせるという意味で擬似的上映権の行使と言えそう。好きな曲を他人に聴かせるために消費するという欲求で多くのダウンロードをするというようなものは、この欲求の消費だと言えよう。“上映”じゃないけどね。


ちなみに、
昔からそうだろうが、違法配信を禁止ししたから、そこで違法受信していた者がそのまま、ソフトを正規に購入するか…といえば否だ。あそこで算出される「経済的損失」というものは、ほとんど虚像であろう。取らぬ狸の皮算用ってやつだ。
「タダだから見た」であって、禁止や取り締まりが厳格になれば、有料なソフトに流れる…のではなく、別のタダのメディアに流れるだけ。その多くはまたテレビに戻るだけであろう。

大衆を染脳…もとい教育しているとの自負のある大メディアは、それをこそ狙っていて、間接的に罪悪感を煽るような物言いをしているのかもしれないが。


ここで、私から一つアイディアを。
引用は誰にでも認められている権利だけれども、映像メディアは、一コマ切り抜いた引用でも、写真一つ、絵一つとして、それぞれ個別に作品だ…とも言えるので、引用を抑制できる。そこで再生メディアの購入を条件に、ブログなどでの映像の引用にまで条件をつけるならば、購入せざるを得ない人が相当数増えるのではなかろうか。多くの人は、番組ソフトの消費をコミュニケーション・ツールと考えているが故に、誰かに伝えられないならば、その行為に意味がなくなるからだ。
とは言っても、最終的にそのような形態に至ることになるのかもしれないが、技術的には、やはり何世代か先の話にならねば無理な話であろうか。

ポニョで駿が開いたもの

  • 2010/02/10(水) 20:38:03

ポニョは死生観(輪廻感)を提示している。

彼は数年前の発言で、今は戦中と似てると言う人がいるが、
そんなことは信じない。今の人は優しいとノタマッテイタ。

しかし、

ポニョの提示した死生観(輪廻感)は、死は怖くない…
生まれ変わりはある。(死ぬとしても)生まれて良かった。
死んでも生まれ変わってやり直せる。…というようなものだ。

死への恐怖を消そうというのは、
死期を前にした老人の自慰行為であろうが、

これはまさに、

「靖国で会おう」…一億総玉砕を支えた死生観そのもの
であろう戦前・戦中への回帰を否定していたその人が、
戦前〜戦中の流れに通じるもの、そのものを提供している
のだ。これは、なんという皮肉か。
いや、否定していたが故に招いた…と言うべきか。

おんたま!概略

  • 2009/11/07(土) 17:10:23

「ニコニコ動画外部プレイヤーに対応しました」ということなので、
ニコニコ動画配信のアニメを見た。→「おんたま!

以下感想。



ステレオタイプとしての
1990±5年間のオタクが死に、
2000±5年間のオタクが、
次世代に承認される話。


魔法を扱った物語として、魔法というものを、
魔法が現実のなにかを物理的に更新を加えるもの
なのではなく、現実を捉える視点を変える体験
によって、精神的な意味で世界を一変させるもの
として扱われているので、合格点…といったところ。




補足>
・1990±5年間のオタク像
 陽気で軟弱。優しいが非モテで貧乏め。軽率でドジ。


・2000±5年間のオタク像
 陰気で硬派。クールでイケメン金持ちめ。慎重で不器用。


後者のタイプ前者の作品群の中では必ず、
主人公の敵役として理不尽な待遇を受けていた
もの
だが、その非合理への違和感からか、
好意的な視線が向けられるようになっていった。

そんな敵役としてのタイプとは多少ズレるけれども、
いわゆるアキバ系の政府にも注目される消費行動は、
どちらかと言えば後者になるのであろう。そして、
1880±5年の子どもは、とても現実的とは言えない
ようなヒーローに憧れ自己陶酔していたものだが、
2000±5年の子どもも、客観的には自分らしからぬ
主人公に純粋に自己投影できていたのではなかろうか。


原作者は年齢的にも性格的にも前者にカテゴライズ
されるようなタイプであるようだけれども、
あえて後者を立てているのは、商売の都合からか、
大人としての責任、後塵へのエールゆえなのか、
単に時代の空気を取り入れているだけなのか…。


移行期を圧縮したからか、非合理な捻れもある。

きちんと対比的に描くならば、
前者を陽気で優しい社交的な存在として描くなら、
後者はコミュニケーション不全として描くべき
なのだろうけれども、
前者のステレオタイプに引きずられてか、
後者を女を気安くデートに誘えるような男として
描かれていたりする。

逆に、後者を不器用で人とどう接して良いか判らない
エヴァ後のオタクとして捉え、前者と対比するならば、
彼女に対する振る舞いがアンビバレントになっている。
また、優しさとはある程度の鈍感さを伴った「強さ」を
兼ね備えていなければ他人に対して示すことはできない
ものであるのに、前者を好きな相手の前で引込み思案に
描きすぎている。具体的にどんな優しさを示したこと
によって彼女を引きつけたのか、イメージが沸きにくい。

このあたりの形質の非対応をそれと気づきにくいように
配置することによって、視聴者の立ち位置…シンパシーの
在処を、前者から後者へと無意識の内にスライドさせる

ことに成功している。
作品総体として、そのように機能しうるものとなっている。

上記の矛盾のある程度は、ドラマツルギー上の
ミスリードのため配された描写でもあるのだろうが。