薬物依存に向けられる世間の目

  • 2009/11/05(木) 12:59:34

薬物依存は病気である。欧州ではそれが基本認識であるとして、
薬物使用者は極悪人であるかの如き論調でこの問題に対処して
いる日本や米国の方針に疑義を立てている記事を読んだ。
そこでは、かつて日本にあっても立法当初は、薬物中毒は
被害者であり、悪いのは流通させる者だとされていたとも
している。

これが変わったのは、それを共産陣営からの攻撃、
海外からの驚異だとする風潮によって、使用者もが
敵であり極悪人であるとされていったのだと言う。




薬物使用者に対する大衆の視線として私が感じるのは、
それよりも、芸能界のような競争が熾烈な場所にあっては、
薬物使用が眠気を飛ばしてライバルより余分に働くことで、
イニシアチブを取ることを可能にする…ある意味で、
“経済活動におけるドーピング剤”でもある…ことから、
その使用者に対する驚異や卑怯な感じや嫉妬、自分も
使用していたらもっと人気出た(出世した)とも言い得る
自慰的な言い訳の材料にもなっているのでしょう。


だから、薬物使用者に対する悪人視は、行政の側の取締り体制
は別にして大衆の側では、オリンピックの祭典が盛り上がりと
平行して、そこでのドーピング追放への騒動と、スポーツマン・
シップに反する卑怯なものだ…という論法の中で、使用者個人を
悪人と見なす視線が醸成されていった。

共産国は国家の威信のために、人を人とも考えずに、国が
強制する。選手は被害者だ…という視線も、アメリカンドリーム
のなかで、私利私欲とも思える形で薬物使用が発覚され、
報道される中で、また、冷戦構造が壊れ、国家の横暴説が
説得力を失う中で、被害者という視線も消えていった。


そして今、コカインや麻薬…薬物汚染という言葉によって、
使用者を、あたかも汚染され隔離すべき伝染病者のように、
そのような者を社会的に差別・迫害してきた俗習と融合して
社会現象として現れているのだとも言えまいか。

それはなお、サービス残業が常態化しているようなこの社会に
あっては、そのような「ドーピング行為」を嫌悪し嫉妬する
認識が、世間一般にも親和性が高く、共有してしまうのであろう。

偏見除去のために手を入れるべき場所は、実はそこ…雇用環境
の在り方…なのではなかろうか。と言えば言い過ぎだろうか。

熱血教師衰退の背景

  • 2009/10/28(水) 17:43:15

熱血教師型の教育の“底上げ対策”が、
すっかり廃れてしまったのは、

それが、依怙贔屓や不平等だと言われるような
批判に説得力があったからであろう。



さらに言えば、いわゆる「不良」のように、
反社会的行為に及ぶ者ばかりに手を重くかけ
彼らを社会的に成功させてきた。その影で、
真面目で温和しい者達が、ほったらかしにされ、
放置されてきた。



そのような「底上げ」は、言うなれば、
末端を上位に“割り込み”させるものである。


中間層が不満に思うのも当然である。
また、偶然にしろ、好悪の結果にしろ、教師の
目に止まらなかった者が、選ばれなかったことに
妬みを覚えるのも当然であろう。


熱血教師型の底上げ対策が注目されていた時代は、
そのような対応に対する都合の良い勘違いが
解けていなかったからであろう。

まだ、そのような底上げが有ろうが無かろうが、
上位が自らの地位が脅かされる心配も抱く程でもなく、

中間層にあっては、そのような救済の対象に自分も
含まれているのではないか…という期待を、未だ
持ち得ていた頃のことであろう。



あるべき底上げとは、努力の差により、多少の
評価の上下が起こっていても、全体としての
集団自体においても、順調に実力が上昇する
ようなもの。



そのような形態が維持されてる前提にあって
問題となるのが、単なる相対評価では見えない
絶対評価による実力の上昇。努力が無駄でないと
思えるだけの、生徒への自覚の誘発の仕組みである。



それが無かったから、努力しても競争に負けてしまう
者が、その努力を常に同じ順位であることを理由に、
無駄と考えてしまうことになる。

「努力してもしなくても、どうせビリだ」というような、
自意識の固定化。それによって、努力し成長を放棄して
しまう層が、努力を続ける層との間に、二極分化が
進んでしまう。しかし、その分裂がどんなに深刻化しても、
クラスなどの小さな集団内での「相対評価」だけでは、
そのような感覚は、なかなか自覚化されてはゆかない。




故に、それを解消させるためには、
全国模試のようなものではなく、


例えば、上級生や下級生との交流を活発に行うこと。

クラスでビリでも、下級生(の普通)よりは、断然優秀
…知らないことを知っていて、体力も上である…ことが、
自尊心を涵養し、下級生には負けられないという、
プライドを脅かす形での最低限の努力までもを怠る
ことの無いように歯止めをかけることにもなろう。

注意しなければならないのは、そのような交流は、
対話の成立する個人単位の共同作業によって為す
ものとして、優秀な者には優秀な者を、下位者には
下位の者を宛がう必要があろう。
上級生でも優秀な下級生ならば、打ちのめされて
しまうこともあろう。そのような体験も希には
あってもよいと思うが、それのみが体験の全てに
なってしまっては、そのような体験では歯止めとは
なり得ないからだ。

教育環境70年

  • 2009/09/10(木) 17:42:12

顔を見たら才能が判る。
(血統主義。お家主義。英才教育も含む)

 ↓

才能は見てくれではない。
(優秀な奴“も”中には居る)

 ↓

誰でも、教育次第で優秀になれる。
(平等主義。幼児万能論…子供は神様)

 ↓

どうせ誰でもいいのなら、顔の良い奴に投資しよう。
(青田買い。教養より部活経験。合理主義)

 ↓

一部の才色兼備の秀才と、多くの馬鹿で無能な衆愚。

 ↓

はじめに戻る→