精と霊と

  • 2009/11/13(金) 18:44:20

アイドルのように恋愛がタブーとされる存在が、
それ故に、婚期を逃し、結果的に生涯独身と
なってしまう者も無くはないだろう。

そのような存在であっても、憧れの対象であり、
そのような対象に自分が成れるのならば、
そのようなリスクなど惜しくないと考える者も、
消えはしないでしょう。

であるならば、むしろ、
そんな抑えなければならない性欲などは、
スキャンダルとして全てを無にしかねないリスクは、
元から断つような「手段」が、所与のものとされる
ようになることも、そう遠くない未来のこと…
なのかもしれない。


同時並行して、性転換と称した実質去勢手術が、
ニューハーフ芸能人の認知と共に、それを行う者
に対する抵抗感のようなものが、かなり無くなって
きている。



思い返して、行政の中枢を担うことになった、
宦官という去勢集団も、一般に言われるように、
血縁相続する王権が、別の血によって簒奪される
可能性を排除するために、生殖能力を持たない者を
のみ身辺に配した…というだけではなく、
優秀な憧れとなる仕事を担う者が、仕事に専念しながら、
ただ、制度の中で上昇志向を純粋に満足させるために、
競争条件を優位にさせる要因として広がっていった
という可能性をも考え合わせてみると、その存在に対する
見方が、だいぶ変わってくる。

単に、「最も大切なモノ」をも奪われるほど虐げられた
最下層の奴隷だ…というだけで、その優秀な官僚機構を
構成できた理由は説明できまい。その上昇志向は
どのように維持されていたのか…、と。

彼岸の実在する社会では

  • 2009/09/19(土) 12:52:27

英国などの中世。王と民衆が旧宗教の元で統治している間、
ともかく祭司の地位を確保した大陸から派遣されてくる
新教キリスト教司祭。

彼の現地で負った役割は、何れ本国へ帰ることを見越して、
現地のモック・キングの役割を、大衆の前で演じてみせる
ことによって、共存関係にあったのではなかろうか。いや、
大衆を欺き統治する共犯関係にあると言えなくもない。

手品的トリックを使って…火刑のような派手なショーで…、
大衆の前で死んでみせていたのではなかろうか。


司祭は現地で形式上死ぬことによって故郷へ帰ることが出来るし、
それまでの人気の間、王に代わる統治を行うことも出来る。
一石二鳥であるのみならず、王家も統治のために一族を
あえて死なせる必要もない。Win-Winの共存関係ともなっている。
二度と目の前に現れないという意味において、生物学的な
死ではなくとも、社会的には間違いなく死んでいるし、
それを疑わせる存在も「この世」には確かにはもはや居ない。




これと似たような関係に、日本の封建時代も…この言葉を
私は日本神話に語られる皇族の天下りを含め想定している…
あったのではなかろうか。と考えている。その名残としての、
日本の彼岸観であり、盆の風習を見立ててみる。

神や死者の霊は「帰って行く」。此処とは別の何処かに
生きて(存在して)いるとしている。それが仏教の来世観
とともに、中央政府の親族が、統治のために派遣されてくる
ことと意味の上で集合する。そこから帰り、また新しく
派遣されてくる方を導くための送火・灯火。また、現地で
死んだとして帰り、二度と戻ってこない彼らの「郷里」は、
地に縛られた農民らにとっての正に極楽浄土であり、
二度と戻ることが無くとも、死ぬ前に一度は行ってみたい
場所(メッカ)として、死んだことにして身の回りを整理して
旅立つことを望むような場所として、「死出の旅」へと
旅だった者も居たろう。また、病や老衰で正に死なんとする
者が、最後の未練として彼岸への旅立ちを望み、それを
見守る者達が、儀式的に、バーチャル的に、死出の旅を
演出脚色して、死の看取りと旅の見送りとを重ね合わせて
考える考え方が、集合し、根深く定着していったので
あろうと考えてみる。

教会権力と基盤

  • 2009/09/14(月) 17:48:07

教会の不正と戦う武器は、
教会が聖書を独占し隠匿している間は、
旧宗教が説き、大衆で共有されていた
道徳的価値観しか手段がなかった。

印刷技術が発達し、聖書の中身が大衆の知るところとなり、
同じく、プロテスタントの神と信徒との一対一の関係が
認められる用になってゆくなかで、ようやく初めて、

教会の不正を不正だと追及することのできる武器を
大衆が手に入れることとなった。といったところか。


それまでは、大衆の側からどんな正義を説いても、
聖書の言葉と神の声を独占する教会の騙る屁理屈と
強弁とによって、どのような者たちも、悪魔の手先と
されてしまう。