替え歌で「乾杯」

  • 2007/06/06(水) 12:51:33


乾杯 今 君は人生の 小さな 小さな
舞台にあり

儚く クダらない生を 与えられている

君に しわよせ あれ
君に しれんよ あれ




卒業も結婚も個人史的には人生を左右する大きな舞台であろう。
しかし、国史人類史的にみれば、どこにも痕跡を残さないで
あろう儚いチリアクタのような存在だ。

個人史レベルで大きなイベントを「大きな大きな舞台」だと
言ってしまうことと、それを「小さな小さな舞台」だと
言えてしまう人間と、どちらの視野が大きいのか。

「舞台に立ち」を「舞台にあり」とあえて言い換えているのは、
その広い世界の中にぽつりと一人在るイメージを重視したから。

「しわ寄せ」とは人の社会の国家間の“うねり”の中心地である。
それに飲み込まれるかその中で高く跳ね上がるかは個人次第だ。
「試練」が無ければ、人は大きくなれない。

時の流れに身をまかせ

  • 2007/06/04(月) 12:54:32

テレサ・テンの名曲
今ではなんだか男の心情を歌っているようだ。

鬼嫁にすらしがみつく弱い大多数の男達の心情を。


♪ 時の流れに身を任せ 貴方の色に染められ…



あの「アッシー」や「ミツグ」等が流行語になった頃から、
そのように媚びる男でなければ結婚できなかったのだろう。
…美男・金持ちは別にして。

故に、この歌は家庭を持つ大多数の男の心情を歌っているのだ
…ろうと言えるのではなかろうか。

媚びて、情けを乞うて、つくしている態度を示す。
でなければ捨てられる。捨てられたら生きて行けない。

その弱い心情を隠す為の言葉としての「愛」。
服従を宣言し続ける敬礼の言葉としての「愛してる」。

♪ だからお願い 側に置いてね
今は貴方しか愛せない ♪

か弱い大人の代弁者なのか

  • 2007/04/20(金) 17:09:23

尾崎豊は当時、そう歌った。教師に対して問いかけた。

どこか反語的に…大人に対する幻滅と、微かな期待を込めて、
その断定的な主張が、大人側から強く否定されることを
期待していたのだろう。おそらく。


しかし、あの時代の大人の態度によって、
その“淡い期待”は打ち砕かれ、疑念は確信に変わった。
この国には「か弱い大人」しか、いやしないいのだと。
卑怯で弱い大人を守る為の、理想なのだと。
流布されている理想やお題目等々の建前などは…所詮…と。





その「確信」の中で育ったのが、'70年代生まれの世代。

'60年代世代が“黄金の世代”だったのではないのかな。
それが欺瞞であったとはいえ、平等の精神の中で物心を付け、
万博のような形で科学を、努力が客観的に評価されることを
信じられ、純粋にヒーローに憧れたまま大人になれた世代であり、
抵抗無く社会に繰り上げできた世代でもある。

'50年代生まれは、未だ戦後の経済難の影の残る中、理想が
単なる理想でしかないことを“当然”だと確信していた世代。
揺るぎない現実であった世代。

'90年代生まれの世代も、バブル後の政治的無策と問題の先送りを
目の当たりにしてくるなかで、社会の欺瞞を欺瞞として見てくる中で、
'60年代生まれが抱いたような幻想を、社会の理想を、子供騙しの
おとぎ話として歯牙にもかけない状態になっているだろう。

理想を口にすることは、幼稚な愚か者として、利己的に振る舞う
人間のみが賢く賞賛されるのだとの前提の上で育っている。尚かつ
利他的な“振る舞い”が処世術として、技術としてスキルとして
磨くべきものだということもきちんと心得ている。

'60年代生まれのように、科学的真実の希求の先に幸せがある
などと考えて学業に打ち込んでいやしない。信じる者が騙された
現実をみてきている。リストラによって社会から不必要な人間として
捨てられる事を恐れるが故に、従順なふりをしてでも学業にいそしむ。

'90年代の「常識」のように、それ(受験教育)が、社会に役に立たない
ことを前提としていても、そこで得たステータスは一生を左右するもの
だ…と、心得ている。

2000年代産まれの世代は、はたしてどんな現実を見せられるのだろう。
やはり、か弱い大人の代弁を聞かされるのだろうか。