歯の描画

  • 2009/08/10(月) 17:02:05

三角に描かれた口の中を塗らずに済まされ
表現されるマンガ表現の「白い歯」。

さわやかで、好感度の高いものとして受け止められる。

しかし、同じ白い歯。同じ構図で描かれていたとしても、
歯の一本一本を識別できるように描かれた歯は、
不気味さや攻撃性を伴ったものとして受容される。


はたして、この差はなんであろう。



考えるに、それは受け手の側の感情。
感情によって左右される目(解像度)の細さ。
瞳孔の開き具合の差として、それらの違いを
異なるものとして識別しているのであろう。

好きなものはより多くみようとする心理が
過剰に発動されると、露光の絞りが甘すぎて、
真っ白な写真になってしまうように、
そこで見る歯は繋がった一つのものとして
光って見える。


相手を不愉快に嫌悪して見るとき、その心理から、
瞳孔を絞り見ることになる。故に歯と歯の隙間の
陰影が知覚されてしまう。


そもそも不愉快な者など見る必要なんて無いの
だから、視覚的に見える状態であっても、
脳内処理としては見ていない。排除処理されるもの
ではある。しかし、そのような不愉快な者を、
そんなモノまで識別できるほど見なければならない
状況として、その不愉快さがその絵を嫌悪の対象
として認知させるのであろう。


ちなみに、
好きな相手が曇った風呂鏡に映ったように
表現されてきたのも、この生理的反応を
心理的効果として寓意的に処理したものであって、
単なるマンガ表現の約束事だけで説明すべきモノ
でもない。

「誰」とは言えぬ「誰か」の影響で育つ「私」

  • 2008/05/05(月) 12:52:47

アニメ涼宮ハルヒの憂鬱は、とても分かり易い
「記憶の再評価」の物語であったが、

その視聴者の潜在的下地になっているであろう作品として、
ヒカルの碁を上げてみたい。

ヒカルの碁 (17) (ジャンプ・コミックス)
ほった ゆみ 小畑 健 梅沢 由香里
集英社

あれも「記憶の再評価」の物語であると言い得る。

人は自らのレゾンテートルを確立する時に、
幼少時の偶然を、歴史的な必然へと読み替える必要がある。
その“確信”こそが、生の基盤であり、生きる指針となる。

そのような物語として描かれ、そのように完結している。

佐為という存在は、そのような偶然を必然へと読み替えるための
辻褄合わせの屁理屈とも、小道具だとも言っていい存在として
見立てるのだ。

…このように言っても、別にその存在をくさしているのではない。
そのように言われても、揺るがない確信こそが、人格の完成とでも
言いうるものである。科学的客観的には永遠に確信し得ない…
自分がここに居ても良いと思える理由であり、自分が今ここに
居なくてはいけない必然性を、自分にとって担保する存在なのだから。


だから、幼少時のファンタジーによくある「見えない友達」としても
理解できない訳ではないが、それ以上の意味を物語全体の構成の中で
着実に根付かせている。


悠久の過去から未来への連続性と、自らの過去…幼き自分から
自我の目覚める思春期での変化と、それでも変わらない
自らの主柱や核心。埋め合わせられない過去の記憶の断続性と
感情と結びついた意味の無い記憶。それらに再び意味を与えてゆく
その作業には、厳密な意味でのウソが入り込まないはずがない。

記憶は残されているだけでなく、作られ、常に改編されていっている。
それは事実の評価や意味だけでなく、事実そのものの改変すらも。

これを自らのこととして自覚でき、納得できるように成ったならば、
このようなオカルト的で非現実的な物語であっても、自らの過去を
意味づけ、物語化することを、「非現実だ」とは「嘘だ」とは、
それだけの理由からは簡単に言えないようになる。
「誰」とは言えぬ「誰か」の影響で育つ「私」 

原作と挿し絵と漫画家と…世紀末〜今世紀の狭間で

  • 2007/04/01(日) 12:16:14

原作者と漫画家の力関係はすでに逆転しているのだろう。

漫画編集者の編集する作家のヒットなどがそれを示している。


マンガ・アニメで育ち、その遺産の上にクリエイティブを
刺激された世代が、そのイマジネーションを表現するのに、
手間のかかるマンガ表現を選んでいては、死産してしまう
ような強い情動の後押しを、手早く表現し、また、読者(大衆)と
共有される為には…世間が無意識的な渇望を顕在化させる
「観音」を現出させるには、そのような「帝王切開」としての
「小説」という手段が欠かせなかったのだろう。

マンガ・アニメの素養があれば理解できる表現で、
その想像力で補える事を前提にすれば、
マンガに劣らぬ表現のできた作品が。


逆に、
若くしてマンガの上手い…特に「絵」の技巧に巧みな者は、
その熟練に費やした引きこもり的な時間によって人生経験が
未熟であり、「物語」が紡げない。パロディやギャグのごとき
作品が大勢を占めることになっていた。


絵は上手い…が、マンガの下手な作者に、原作を 付ける。

原作の脇役として挿し絵画家が配され、その延長にあった
マンガ業界の上下関係のごときものがここで逆転する。
絵の上手い実力漫画家の技能を活かすための原作者を
必要とする。そこでは原作の側がアテである。

…そのもっとも成功した事例が、ヒカルの碁や
デスノートの大ヒットをもたらした小畑建の事例では。