過去ばかり見ていて何が悪いのか?!

  • 2010/09/20(月) 19:53:54


過去を見ることは、未来を見ることに通じている。


例えば、
去年の今頃何をやっていたかを思い出すことは、同時に
今これからやらなきゃいけない事を考える事でもある。
祭りの準備だとか、季節の対策だとか。

二年前の事を見つめる事は、
二年後のオリンピックを準備する事に通じたり、

十年の流行の流れを辿ることで、
今後の流行りが繰り返すことが分かったりする。




未来こそが大事だと言っていても、
前向きに振る舞うことを強調しているつもりであっても、

過去を見つめることを ことさら嫌悪していても、
全く見ようとしないのも、考えるのが億劫なのも、
タブー視してしまうことも、

結果的には、未来を見る目を失っているようなもの。





目先の与えられたスケジュールにただ追われ、流行に流され
利用され、未来が見えない不安に惑っているのではありませんか?


占いが流行っているのは、結局、そういうことなのではないでしょうか?



流行が輪廻していることが実感として解っていれば、
何れ戻ってくるものを必死に追うこともなくなるでしょう。

自分らしさを貫くことに、時代との永遠の別離を覚悟する
必要もなくなります。

賑わい始めるミルグラム効果

  • 2010/09/17(金) 19:47:41


最近よく見るようになってきたミルグラム効果という形容。

スタンリー・ミルグラムがそれを発表したのが1963年だそうだから、
何を今さらな感が。



何故、今まで眠っていたのだろうのか?
日本にはその考えが輸入されなかったのだろうか?
日本は遅れていたのだろうか?


そうではないと思う。



それを先に手に入れた支配者層が利用したのが、
ミルグラム効果の逆の効用
だったのだろう。

つまり、
どの様にすれば、社員を迷い無く従順に働かせることができるか。
迷いを懐かせないようにできるか。…最大限に利用してきたのだろう。



なればこそ、
そう利用してきたからこその、今のこの社蓄の量産された現状。
リストラの蔓延。差別的な下請けイジメの連鎖。

ミルグラム効果の残酷さは、それが不都合な支配者層によって、
意識的にネグられてきたのではないだろうか…?




それが、今になってようやく、
平民の目に届くところにまで降りてきた。それが今、
ということなのだろう。


怒りを通り越して呆れている

  • 2010/09/11(土) 12:40:14


怒りを通り越して呆れている



すっかりこの言い回しが定式化してしまっていて、発言者が
本当に「怒る」を「通り越して」いるのかどうか、怪しい。

使用している人は、「怒る」の最上級だと思って選んでいる
のだろうか? そうかも知れない。けれど、

相手が感じる驚異は、相手に与える敵意は、どう考えても、
「呆れている」より「怒っている」状態の者でしょう。


傍若無人な異端者にとっては、
自分に向かって怒っている存在は、直接的な驚異
だけど、
呆れている存在は、自らに積極的な働きかけをしない者、
居ても居ないのと ほとんど変わらない存在である。


何の脅威も、感じることは無いだろう。



この言葉で私の感じる印象は、もはや、
TVのお笑いでツッコミの言葉として「死ねっ」と言うようなもの。
実際には死んで欲しいと思っているはずもなく、怒ってすらも
いない。そのような言葉を許容できる信頼関係で結ばれてる。

単なる表現だけのインフレであって、その実態は、
省エネに他ならない。

より楽に、安楽に、建前としての怒りの表現を、
より強く見せているフリがしたいだけなのだろう。

顔色を良く見せるために、運動で健康を手に入れるのではなく、
化粧で誤魔化すようなものと同じ。





さて、とは言え、

元々この言葉が驚異を表す言葉になったのは、いったい
どのような背景からだったのでしょう?


私の考えるに、おそらくたぶん…、


終身雇用が当たり前の永続的な社会の中で、
叱られて指導を受けている状態と、
諦められてネグレクト状態にされている状態の比較で、
前者が後者より社会的に酷い状態であったことから、
この言葉が驚異になっていったんだろう。

「村八分」や「業界から干される」といった言葉と
類似した表現として。





しかし、今のように簡単にリストラに走り、
非正規雇用が常態化し、首を切られて はいサヨナラ なのだから、
「呆れられ」たって、関係が切れているのだから、何の驚異もない。

個人を対象とした憎悪を向けてくるような「怒り」ならば、
例え関係を切ったからといって、その怒りの矛先から逃れられる
わけではない。例えばストーカーのような存在として、脅威が
続くことが予想されてくる。




こう考えると、

もし本当に、強い怒りを感じているならば、
憂いを感じているならば、


怒りを「通り越して」なんていてはダメでしょう。


そんなもの、怒りを押し殺した、押しとどめたのと
結局は同じ状態に居ることに他ならないのだから。


しっかりと、怒りという山に登り、留めていなければ。


怒りとは、丘の上に陣を張るようなもの。よく目立つ。

怒りを通り越すのも、そもそも怒ることすらないのも、
共に、丘の下、平地部分にあることに変わりはない。
怒りも無く無頓着なその他大勢と共に、紛れてしまだけ。



いずれこの言葉は、「泣き寝入り」と、ほとんど類似の意味しか
持ち得なくなっているかも知れません。